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マンライバートル・ダムディンスレン (、ラテン文字:Manlaibaatar Damdinsüren、''最初の英雄ダムディンスレン''の意、; 1871年3月13日 – 1921年1月27日), 本名 ジャムスランギーン・ダムディンスレン ()は、 モンゴルの軍事指導者、汎モンゴル主義者、外交官、独立運動家。 ==経歴== 内モンゴルフルンボイルのバルガ族〔Sanders 1996, p. 49〕左翼正白旗出身。7歳より満州文字 およびモンゴル文字を学ぶ。、ニルに叙せられる。1908年、家督相続のため北京の紫禁城に赴いた際、同じく接見に来たボルジギン氏の右翼左旗でのちにボグド・ハーン政権にて外務大臣を務めると出会い、蒙古人の独立について密かに話し合ったとされる。 1911年、ダムディンスレンはイフ・フレーにて諸王や高僧らの密会に参加、清からの独立にジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主として推戴する事とした。発表後、ダムディンスレンは兵を動員しハイラルの掌握に貢献、ボグド・ハーンの信任を得、ボグド・ハーン政権成立後に奉恩輔国公の爵位と外務副大臣の地位を得る〔周学军,《蒙藏条约》蒙方签字人职衔辨析——对《近代俄国与中国西藏》译文的意见,西藏研究2000年第4期〕。1912年8月、、ジャ・ラマとともにホブドの中国軍を退け、奉恩鎮国公の爵位と''マンライバートル''の称号を受けた。12年末には固山貝子となる〔。 1913年2月、チベット・モンゴル相互承認条約調印に参加〔Udo B. Barkmann, ''Geschichte der Mongolei'', Bonn 1999, p.119-122,380f〕。その後再び戦線に戻り、 フフホト攻略に兵を進めるも失敗に終わった〔Baabar 1999, p. 164〕。この遠征にはのちに革命運動の指導者となるも参加している〔Sanders 1996, p. 49〕。 1914年12月から1915年6月にかけて、策定に向けた交渉に参加し、内蒙古の権益を主張〔Baabar 1999, p. 164〕するが、自治を獲得したのは外蒙古のみであった。 その後、自治政府内には政争が起こり、カンドドルジ外務大臣、首相らが次々と不審な死を遂げる。1919年10月、徐樹錚率いる西北辺防軍第1師が侵攻し、翌月には。1920年、ダムディンスレンはマグサリジャプとともにと接触を図るようになるも、北洋政府に逮捕され、1921年1月に獄死。 ウランバートル市内に「マンライバートル・ダムディンスレン通り」がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マンライバートル・ダムディンスレン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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