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セガ・マークIII(セガ・マークスリー、SEGA MarkIII)とは、1985年10月20日にセガ・エンタープライゼス(後のセガゲームス)が発売した家庭用ゲーム機である。流通用の型番はSG-1000M3。 == 概要 == SC-3000シリーズ(SG-1000/SG-1000II)やオセロマルチビジョンとの互換性を維持しつつ、同時発色数、スプライト、スクロール機能などを強化したゲーム機である。接続端子はSC-3000シリーズにあったものの他に、マイカード専用スロットが追加された。 発色数などで任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)を上回る部分もあったが、ファミコンの爆発的な普及、サードパーティー制導入の遅れによるソフトラインナップの偏りにより、劣勢を覆すには至らなかった。しかし、ゲーム専門雑誌Beepでは大きくページを割いて取り扱われていて、「セガ人」と呼ばれるような熱狂的なマニア層を作り出した。 日本国外では外装を変更し「Sega Master System」の名称で販売された。 マークIIIがまだ開発中だった頃の日本は1983年に発売されていたファミコンが普及しはじめていた時期であり、主な競合機としてはセガが従来機SG-1000のマイナーチェンジモデルSG-1000IIを展開していたほか、同時期には一部の機能でファミコンを凌駕する性能を持つエポック社のスーパーカセットビジョンも登場した。この時点でセガはハードウエア性能で遅れを取ったが、1985年10月のマークIIIの登場によりファミコンに比肩する性能をもつ家庭用ゲーム機を市場に投入する形となる。この頃は任天堂・セガ・エポック社の3社が時代を作ったと言われるが、その後のファミコンの爆発的な普及に伴い、これらの競合機は最後発のマークIIIを除いて1987年頃までにほぼ収束。1987年10月にPCエンジンが発売されるまでマークIIIがほぼ唯一のファミコン対抗機となった〔中田宏之『任天堂大戦略 マリオがトヨタを超える日!』JICC出版局、1990年、p.32〕。発売から2年後の1987年10月にはFM音源と連射装置などを内蔵したマイナーチェンジ機のセガ・マスターシステムを発売。アメリカではシェアが10%程度で、ファミコンの日本国外版であるNintendo Entertainment System(NES)が市場の90%を占めてほとんど普及しなかった〔大下英治『セガ・ゲームの王国』講談社、1993年、p.285〕。ヨーロッパではかなり健闘し、ほぼ二分するほどの普及を見せたが、市場が小さく〔大下英治『セガ・ゲームの王国』講談社、1993年、p.302〕〔内海一郎『任天堂ガリバー商法の秘密』日本文芸社、1991年、p.126〕、世界シェアでは9.1%にとどまった〔逸見啓『任天堂・セガ』大月書店、1997年、p.45〕。韓国やブラジルでも市場を開拓した〔逸見啓『任天堂・セガ』大月書店、1997年、p.161〕。SG-1000からのセガの8ビットゲーム機の1992年までの累計は780万台。日本を含む台湾、韓国、香港などのアジアで150万台、アメリカで180万台、ヨーロッパで350万台という内訳である〔。一方、ファミコンは累計で6191万台を販売した。 当時セガの社長の中山隼雄は8ビット世代での敗因として、それまで家庭用ビジネスをしてきた任天堂と家庭用ビジネスをしてこなかったセガとの差、セガは業務用が主体で任天堂のように家庭用への絞り込みをしなかったこと、任天堂が独走して任天堂神話を確立したことを挙げている〔大下英治『セガ・ゲームの王国』講談社、1993年、p.14〕。 日本オリジナルの版権ものタイトルのゲームが何点かあったが、『あんみつ姫』『スケバン刑事』などはコントローラーの操作性の悪さも相まって、対象年齢とは裏腹に苛烈な難易度のゲームとなっている。 マークIIIと同性能のアーケード基板もあり、『ファンタジーゾーンII』などが逆移植された(後述)。セガ直営店などでは日本未発売の光線銃使用ソフト等が5種類遊べる筐体があった。中には、『北斗の拳』の日本国外版のタイトルである『ブラックベルト』が入っているのもあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セガ・マークIII」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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