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ミ23船団[み23せんだん]
ミ23船団(ミ23せんだん)とは、太平洋戦争後期の1944年10月に、日本本土からボルネオ島ミリへ、石油積み取りのため出航した日本の護送船団である。台湾海峡でアメリカ潜水艦の攻撃を受けてタンカー2隻を失い、レイテ島の戦い開始による情勢悪化の影響で目的地を変更してシンガポールに到着した。本船団を襲撃中にアメリカ潜水艦「タング」は自分の発射した魚雷が命中して沈没し、日本の石油輸送専用船団との交戦による唯一の喪失艦となった。 == 背景 ==
太平洋戦争における日本の戦略上、占領した東南アジアからの石油の海上輸送は極めて重要であった。そこで、日本は、シンガポール(当時の日本名は昭南)と門司を結ぶ高速のヒ船団と、ボルネオ島ミリと門司をマニラ経由で結ぶ低速のミ船団の2種類の石油タンカー船団を設定し、シーレーン防衛を図っていた。しかし、バシー海峡周辺などに展開したアメリカ潜水艦の激しい攻撃にさらされ、大きな被害を出しつつあった。 1944年(昭和19年)10月当時、アメリカ軍は、10月20日のレイテ島上陸直前の状態にあった。アメリカ海軍は、反撃に出撃する日本艦隊や増援船団を阻止するため、本州南方から台湾、フィリピンの周辺海域にかけて45隻もの潜水艦を展開し、これまでで最も濃密な哨戒網を張っていた〔木俣(1991年)、131-132頁。〕。10月12-16日にはレイテ島上陸の前哨戦である台湾沖航空戦が発生し、日本海軍の航空部隊は大打撃を受けて、貴重なレーダー装備の対潜哨戒機も多くが失われた。10月17日に捷一号作戦準備が発令されると海上護衛総司令部隷下の対潜哨戒機部隊も決戦用に駆り出され、基地が頻繁に空襲を受けて空中退避しなければならないこともあって、船団護衛への航空協力がまともにできない状態に陥った〔『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像16-17枚目。〕。 こうした中でミ23船団は計画された。船団名は通算23番目・ミリ行き往航12番目のミ船団を意味するが、船団番号に欠番があるため実際の運航順とは一致しない。#航海の経過で詳述のとおり、出航準備中に次便のミ25船団(初代)を吸収している。10隻の加入タンカーのうち正規の大型タンカーは2TL型戦時標準船「宗像丸」(昭和タンカー:10045総トン)のみで、その他は通常貨物船改装の「松本丸」及び同じく通常貨物船から設計変更して竣工が始まったばかりの2AT型戦時標準船5隻、中型の2TM型戦時標準船3隻という低性能船主体の構成であった〔岩重(2012年)、94頁。〕。タンカー以外に特設工作艦「白沙」と貨物船等4隻が加入している。護衛部隊は海防艦5隻と旧式駆逐艦改装の哨戒艇2隻から成り、船団の指揮は「白沙」座乗の第8運航指揮官の山本雅一大佐が執った〔『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像43、62枚目。〕。海防艦のうち3隻は竣工間もない艦で、対潜訓練隊での教育を打ち切って実戦投入された〔『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第四十六号海防艦戦時日誌』、画像37枚目。〕。また、燃料消費量が多いタービン機関搭載の丁型海防艦のため、途中での燃料補給が必要となっている〔『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 特設工作艦白沙戦時日誌』、画像58枚目。〕。 日本の海上護衛総司令部もフィリピンへの反攻作戦が差し迫っていることに気付いており、ミ23船団を従来のミ船団と航路変更してマニラを経由させず、インドシナ半島沿いに南下してフィリピンを迂回し、サンジャック(聖雀、現在のブンタウ)を経由する航路を指示した〔。ミ船団の本来の目的地はミリであるが、サンジャックから先の行程の護衛は追って指示とされている〔『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第四十六号海防艦戦時日誌』、画像38-39枚目。〕。ミ船団と合同運航することの多かったフィリピン向けの軍隊輸送船も同行しなかった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミ23船団」の詳細全文を読む
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