翻訳と辞書
Words near each other
・ ミケル・テノーレ
・ ミケル・デルザングル
・ ミケル・ニエベ
・ ミケル・ニノリッチ
・ ミケル・ネロム
・ ミケル・ハンセン
・ ミケル・ボー・フォルスガード
・ ミケル・ボー・フォルスゴー
・ ミケル・ポー・フォルスガード
・ ミケル・ラサ・ゴイコエチェア
ミケル・ラボア
・ ミケロッツォ
・ ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ
・ ミケロッツォ・ミケロッツィ
・ ミケロッティ
・ ミケンズルール
・ ミケーナイ
・ ミケーナイ文明
・ ミケーネ
・ ミケーネ・ギリシャ語


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ミケル・ラボア : ウィキペディア日本語版
ミケル・ラボア

ミケル・ラボア(, 1934年6月15日 - 2008年12月1日)は、スペインギプスコア県パサイア出身のシンガーソングライター精神科医
バスク地方のバスク音楽でもっとも重要なシンガーソングライターの一人であり、より若い世代のミュージシャンに影響を与えた。ラボアはほぼすべての曲をバスク語で歌った。
== 経歴 ==

父親はバスク民族主義党 (PNV) の政治家であり、サン・セバスティアン市議会議員を務めた〔。1934年6月15日、ミケル・ラボアはギプスコア県パサイアに生まれたが、1936年からのスペイン内戦中にはフランシスコ・フランコエミリオ・モラらを中心とする反乱軍がギプスコア県に進攻したため、母親とミケルら7人の子どもはビスカヤ県の漁村レケイティオで2年間ほど過ごし、内戦終結前の1939年にサン・セバスティアンに戻って父親と再会した〔〔。1950年代にはナバーラ県パンプローナで医学と精神医学を学び、1950年にギターを学び始めた〔。1955年には友人からもらったレコードでアルゼンチンのアタウアルパ・ユパンキに惹かれ〔、またチリのヴィオレタ・パーラなどのアーティストにも影響を受けた。ラボアは彼らの後を継ぎ、自身を「政治的アーティスト」に位置付けた。1962年にはサラゴサにおいて、初めて公衆の前でバスク語の曲を歌った〔。1964年にマリソル・バスティダと結婚して2人の子供を儲け〔〔、ミュージシャンとして活動する一方で、サン・セバスティアンにあるサン・ミゲル病院の子ども精神神経部などで20年間精神科医として勤務した。1964年頃にはバルセロナの病院に勤務しており、いったんサン・セバスティアンに戻った後に、再びバルセロナに移って小児神経精神医学を勉強した。
1965年頃のカタルーニャでは『16人の判事』などがノバ・カンソ運動(「新しい歌」の意味、カタルーニャ語音楽の復興運動)を起こしていた〔植野(2002)、p.152〕。ノバ・カンソ運動に共感したラボアは1967年頃、フランシスコ・フランコ独裁政権下で永い眠りについていたバスク文化を活性化させようと、他のバスク人アーティストともに『エス・ドク・アマイル』〔, 、「13は存在しない」の意味。バスク地方でも「13」は忌み数である。〕という音楽グループを設立した〔植野(2002)、p.155〕。このグループはバスク語の復興と社会的地位に焦点を当て、ラボアはベニート・レルチュンディなどとともに「新バスク音楽」の担い手として自身の地位を確立した。『エス・ドク・アマイル』のメンバーは不特定であり、ギター、チャラパルタ(木板の打楽器)、(牛の角笛)などの演奏をベースに、伝統音楽、ダンス、詩の朗読などを、スペイン・バスクだけでなくカタルーニャやフランスなどでも行った〔植野(2002)、p.156〕。1969年にはヘシュス・アルツェの詩に曲をつけた『Txoria txori』(鳥よ、鳥)を発表し、この曲は現在でもバスクで広く愛されている〔植野(2002)、p.149〕。ライブ活動を基盤とするグループだった『エス・ドク・アマイル』は、ライブ・アルバムなども製作することなく、1972年に解散した〔植野(2002)、p.157〕。フランコによるバスク語抑圧政策のために、初期の何枚かのアルバムはフランス領バスクでしかリリースできなかったが、1974年の『1、3』はスペイン・バスクでもリリースされた〔。
1985年には精神科医の職を退いて音楽活動に専念するようになった〔植野(2002)、p.151〕。2006年7月11日、サン・セバスティアン国際ジャズ・フェスティバル(ジャサルディア)の一部としてサン・セバスティアンのラ・スリオラ海岸で開催されたボブ・ディランの「平和コンサート」ではオープニングを務め、数千人の聴衆の前で音楽生活の最後のステージを終えた〔。音楽生活で最後のコラボレーションはパサイアのグループであるナイスロシャ(Naizroxa)とであり、彼らのアルバムで『Iqharaturic』という曲を歌っている。2000年代半ばからは断続的に体調を崩し、2008年12月1日、サン・セバスティアンの病院で死去した。74歳だった。2008年にはギプスコア県最大の栄誉であるゴールド・メダルの授与が決定しており、12月23日に授賞式が予定されていた〔。サン・セバスティアン市はラボアの功績を称え、2009年には市内を流れるウルメア川にミケル・ラボア橋が完成した。2013年にはバスク文化(音楽・舞踊・即興詩)の国際化のため、ギプスコア県はバスク大学にミケル・ラボアの名を冠した奨学金制度を制定した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミケル・ラボア」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.