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ミコラ・リセンコ : ウィキペディア日本語版
ミコラ・リセンコ

ミコラ・ヴィラリヨヴィチ・リセンコMykola Vitaliyovych Lysenko 1842年3月22日 - 1912年11月6日)は、ウクライナ作曲家ピアニスト指揮者民族音楽学者。リセンコはソ連体制下ではウクライナの市民階級の国粋主義者とみなされていた。
== 生涯 ==
リセンコはウクライナのクレメンチュークに生まれた〔Encyclopedia of Ukraine 〕〔訳注:翻訳元の記述はPoltava Governorateのクレメンチューク、Hrynkyとなっている。〕。父はヴィラリー・ロマノヴィチ・リセンコ(ウクライナ語:Віталій Романович Лисенко)であった。リセンコは幼い頃からウクライナの農夫の歌う民謡や、タラス・シェフチェンコの詩に強い関心を持っていた。1861年に死亡したシェフチェンコの亡骸がウクライナに戻ると、リセンコは棺を運ぶ者の中に加わっている。キエフ大学に在学中に彼が収集と編曲を行ったウクライナの民謡集は、7巻にまとめられて出版された。主に情報源となったのは〔訳注:放浪のウクライナの吟遊詩人のこと。コブツァ(Kobza)というリュートに似た楽器を奏し、コブツァーリという言葉は「コブツァ奏者」という意味を持つ。〕のOstap Veresaiであった。(後にリセンコは息子の名前を彼にちなんで付けている)
リセンコはにおいて生物学を専攻し、音楽は私的に学んでいたに過ぎなかった。ロシア音楽協会から奨学金を授与され、彼はライプツィヒ音楽院でさらに音楽の専門教育を追及できるようになった。この音楽院で過ごす間に、彼は西側の作曲家の模倣をするのではなく、ウクライナの音楽を集め、発展させ、創造することが重要なのだと理解した。
キエフへと戻るとすぐに、リセンコはウクライナを主題とした作曲を継続した。ウクライナにも大ロシアの文化を浸透させることを目指していたロシア音楽協会は、親ウクライナ的な彼の作曲方針を援助しようとしなかった。結果としてリセンコは彼らとの関係を絶ち、ロシア語の詩には決して曲をつけようとせず、また自作のロシア語への翻訳を一切禁じた。
1870年代中盤に、若いリセンコは管弦楽法作曲の腕を上達させるため、サンクトペテルブルクへと赴きリムスキー=コルサコフに管弦楽法を師事した。しかしながら、熱心なウクライナ国粋主義でロシア帝国の専制政治を軽蔑していたことは、彼のキャリアの妨げとなった。彼は1905年ロシア第一革命に加担した罪で、1907年にしばし投獄される。1908年には、キエフで結成されたウクライナの国民的著名人の集まりであるウクライナ・クラブ〔訳注:ウクライナ国立学士院の向かいにある建物で会合を開いていた。1912年には転覆工作を告発されて一度解散させられる。〕の代表となった。
オペラリブレットを作成するにあたって、リセンコはウクライナ語のみを用いるよう強く主張した。チャイコフスキーは彼の「''Taras Bulba''」に感銘を受けて、これをモスクワで上演したいと希望したが、リセンコがロシア語ではなくウクライナ語を用いての上演を主張して譲らなかったため、モスクワ公演は実現しなかった。
後年、リセンコはウクライナ音楽学校を開校するための基金を立ち上げた。彼の死にはウクライナ国中が広く悲しみに包まれた。リセンコの娘のマリアナ(Mariana)は父の足跡を追ってピアニストとなり、息子のオスタップ(Ostap)もキエフで音楽を教えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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