|
サトルニノ・オレステス・アルマス・ミノーソ・アーリエタ(Saturnino Orestes Armas Miñoso Arrieta, 1925年11月29日 - 2015年3月1日)は、アメリカ合衆国のメジャーリーグで活躍していた、キューバのハバナ州ハバナ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投げ右打ち。シカゴ・ホワイトソックス等4球団で活躍し、7つのポジションを守った。現役時代の背番号「9」はホワイトソックスの永久欠番となっている。1940・1950・1960・1970・1980年代と5ディケードで試合に出場した。現役時代「Mr. White Sox」(ミスターホワイトソックス)と称された。 == 来歴・人物 == からニグロリーグのニューヨーク・キューバン でプレー。にクリーブランド・インディアンスと契約し、翌に昇格した。この年は9試合に出場したのみで、翌は再び傘下マイナーリーグで過ごす。再昇格したの開幕直後の4月30日に、インディアンスからシカゴ・ホワイトソックスに移籍。このトレードは両球団の他にフィラデルフィア・アスレチックスの3球団が絡むトレードであった。ホワイトソックスに移籍した初戦は本拠地コミスキー・パークでのニューヨーク・ヤンキース戦であったが、三塁手として起用されたこの試合の第一打席で初球を本塁打。以後、外野手のレギュラーとして起用され、両球団合計で146試合に出場。アメリカンリーグ1位の31盗塁を記録し、打率.326、本塁打10、打点76と活躍。三塁打14もリーグ1位であった。新人王の投票ではギル・マクドゥガルド(ヤンキース)に次ぐ2位であった。 以後も俊足、好打、そして好守備の外野手として活躍。アメリカンリーグ盗塁王は1951年に次いで、と計3回獲得。MLBオールスターゲームには通算7回選出された。死球も多く、通算192死球を記録。これはシーズン終了時点でも歴代9位である。1951年からまでの間、1955年を除く10シーズンでリーグ1位を記録した。 に創設されたゴールドグラブ賞を獲得〔現在、ゴールドグラブ賞は、両リーグでそれぞれ選出されているが、1957年のみは現在と異なり、両リーグから投手・捕手・内野の各ポジション1人ずつ、外野で3人が選出されている。〕。翌にはインディアンスに移籍するが、と、ホワイトソックスに復帰したにも受賞した。 にセントルイス・カージナルス移籍後は出場機会が減り、には新球団ワシントン・セネタースに移籍。3たびホワイトソックスに復帰したを最後に、38歳で一度は引退した。 その後数年メキシカンリーグでプレイしたが、50歳となったに、当時のオーナービル・ベックのアイディアで現役に復帰。3試合に指名打者として出場し、1安打を記録した。現在でも、安打の記録としてはメジャー史上4番目の年長記録である。さらに、シーズン終盤2試合に代打で出場し、1890年代から1930年代にかけて出場したニック・アルトロック以来史上2人目の「5ディケイド・プレイヤー」となった。また、54歳での出場はサチェル・ペイジの59歳、前出アルトロックの57歳に次いで3番目の年長メジャーリーガーであった。ちなみに、ミノーソが最初にインディアンスと契約した際のオーナーがベックであった。 さらに10年後の、この年限りで閉鎖される旧コミスキー・パークの最後の試合にホワイトソックスは64歳のミノーソを現役復帰させて史上最年長選手、そして史上初の「6ディケード・プレイヤー」にしようと画策したが、当時のMLBコミッショナーであった、フェイ・ヴィンセントが「単なる客寄せで、試合の尊厳を損なう。」として許可しなかった。試合には出場できなかったが、名誉キャプテンとしてベンチ入りし、試合前のメンバー交換に登場した。メジャーリーグでの「6ディケード」はならなかったが、独立リーグのセントポール・セインツではとにそれぞれ試合に出場し、「7ディケードプレイヤー」となっている。 には現役時代の背番号9がホワイトソックスの永久欠番となった。にはホワイトソックスの殿堂入り。には現本拠地のUSセルラー・フィールドにミノーソの銅像が完成。にホワイトソックスがワールドシリーズ優勝を果たした時にはシカゴ市内のパレードに参加している。なお、ミノーソ自身は現役時代にワールドシリーズに出場したことはない。 3月1日に死去。ホワイトソックスファンであるバラク・オバマ大統領が声明を出し、「ミノーソ氏は野球殿堂入りこそ果たせなかったかもしれないが、私やこれまでの黒人とラテン系の若者にとって、彼が残した功績はどんな表彰楯よりも価値がある」と述べた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミニー・ミノーソ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|