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ミニー・ヴォートリン : ウィキペディア日本語版
ミニー・ヴォートリン

ウィルヘルミナ(ミニー)・ヴォートリン(1886年9月27日 - 1941年5月14日)は、アメリカ人の宣教師。1919年より中国・南京の金陵女子大学で教師・教務主任を務めた。1937年、日中戦争初期の南京攻略戦の際に南京安全区の設営に関わり、同区内にあった金陵女子文理学院で多数の女性や子供の難民を保護した。当時の日記を残しており、原文(英語)の電子ファイルが参照できる〔イェール大学神学図書館にThe Nanking Massacre Project のページが開設されており、1937年の南京事件に関わったアメリカ人宣教師を中心とした人々や、事件に関する文献・資料が閲覧できる。このうち、ミニー・ヴォートリンのページ から、|『ミニー・ヴォートリンの日記』の原文全文がマイクロフィルム化されたもの 『DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN 1937-1940』(英語PDF資料Vautrin.pdf:33.81MB、全555ページ)From papers of Minnie Vautrin in Record Groups No. 8 & 11, and microfilm Ms 62. Microfilmed collection of Vautrin papers includes her diary (1937-1940), correspondence and newsclippings. が閲覧可能である。〕ほか、日本語抄訳版が「南京事件の日々」として公刊されている。
==略歴〔「南京事件の日々」による。〕==

1886年、アメリカ・イリノイ州シカールに生まれる。父は鍛冶屋を営み、わずかな農地を耕して生活を維持する貧しい家庭だった。6歳の時に母親が急逝し、母親がわりに家事をこなし、畑仕事を手伝い、弟の世話をした。高等学校卒業後、教員養成学校であったイリノイ州立短期大学に進学。学費と生活費を稼ぐために学業を中断しながらも同大学を卒業し、中学校の教師となった。数年後にイリノイ大学教育学部に入学。26歳で同校を卒業した。
大学時代にキリスト教の海外伝道活動に強い関心を持つようになり、大学卒業と同時に連合キリスト教伝道団に加入、1912年に中国安徽省の合肥に派遣された。合肥ではキリスト教女子中学校を創設し、中国での女子教育と伝道の半生を開始した。
1918年、休暇制度により帰米。コロンビア大学大学院に入学し、1年後に教育学修士の学位を取得した。1919年、金陵女子大学の初代学長ローレンス・サーストンの熱心な招聘により、南京に赴任し、同大学の教師・教務主任となった。
金陵女子大学(1930年に金陵女子文理学院に改称)では初代学長サーストンと第2代学長呉貽芳を実務面で支えて教科教育、学校運営に携わった。また、貧困層の児童に無償で基礎教育を受けさせ、貧困家庭の女性に手工芸品作りや育児・家庭衛生の知識を教え、大学内に診療所を開設して貧しい住民を無償で治療するなど、社会教育の実践に力を入れた。ヴォートリンは中国名を英語音に近い「華群」と名乗り、住民からは「華小姐」と呼ばれて慕われた。
1937年7月に日中戦争が始まると、8月以降の日本軍による南京空襲を受けて同学院は学生・教員を他の都市のミッションスクールに緊急編入させて教育活動を継続。ヴォートリンら若干名の教職員・理事は南京に残り、同年12月の南京攻城戦に際して南京安全区内にあった同学院のキャンパスを難民収容施設として開放し、主に女性や子供の避難民を受け入れた。南京攻城戦後の南京事件では、キャンパスを訪れて掠奪をしたり、学校関係者や女性難民を連行・強姦しようとした日本兵グループを追い払い、日本大使館に被害状況を伝えて警備のため憲兵を派遣してもらうなど、避難民の保護に奔走した。
1938年5月末に安全区と難民収容所が廃止された後も、身寄りを無くした女性難民の保護を続け、その自立支援のための教育活動を行った。また女性住民から日本軍に連行され行方不明となった男性住民の捜索の相談を受けて状況を調査し、日本大使館に捜索を依頼、元兵士として刑務所に収容されていた住民の釈放運動を行うなど、事後の救済活動に携わった。
しかしこの頃から女性難民の社会教育に充てる学校経費の調達や、日本の軍政当局からの教育内容や教科書の使用に関する要求に悩み、また日本軍が次々と中国と中国の大都市を爆撃・破壊し、戦火を拡大していくニュースに接し、南京事件の体験を思い出して抑鬱症状を悪化させ、1940年5月に精神治療の為に米国に帰国。その後、精神療養施設での療養生活、病状回復と自殺未遂を繰り返し、1941年5月14日、インディアナポリスの連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所でガス自殺を図り、55歳でこの世を去った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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