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ミハイル3世シシュマン : ウィキペディア日本語版
ミハイル3世シシュマン[みはいる3せいししゅまん]

ミハイル3世シシュマン(、1280年以後 - 1330年7月31日)は、第二次ブルガリア帝国皇帝ツァール、在位1323年 - 1330年)。正確な生年は不明であるが、1280年から1292年の間に生まれたと考えられている。
ミハイル3世は第二次ブルガリア帝国の最後の王朝であるシシュマン朝の建国者であるが、即位直後にはアセンの名前を名乗り、第二次ブルガリア帝国最初の王朝であるアセン朝との繋がりを強調した。
ミハイル3世は精力的かつ野心的な君主であり、敵対するビザンツ帝国(東ローマ帝国)とセルビア王国に硬軟織り交ぜた外交政策を展開したが、1330年7月28日のヴェルブジュドの戦いで敗れ、陣没した。バルカン半島におけるブルガリア帝国の政治的・軍事的覇権の回復を目指して活動し、またビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの占領を試みた最後の中世ブルガリア世界の君主だった。
彼の死後、子のイヴァン・ステファン、次いで甥のイヴァン・アレクサンダルが跡を継ぎ、イヴァン・アレクサンダルはミハイル3世の政策を翻してセルビアと同盟を結んだ〔Kazhdan, "Michael III Šišman", 1365頁〕。
== 生涯 ==

=== 皇帝即位前 ===

1280年〔Андреев, p. 255〕から1292年〔の間にヴィディンのデスポト・シシュマンの子として生まれる。母は尊厳公(セヴァストクラトル)ペタルとアセン家出身のブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の娘アンナ・テオドラとの間の娘である。テルテル家出身の皇帝テオドル・スヴェトスラフゲオルギ2世テルテルは遠戚にあたる。
13世紀中葉からヴィディンとその一帯は強力なブルガリア人領主の統治下でブルガリア帝国から半ば独立した状態になり、(1276年/77年没)、シシュマン、ミハイル3世らがヴィディンを支配していた。シシュマン親子はテオドル・スヴェトスラフからdespotēsの高位を授与され、同時代のヴェネツィアの史料はミハイル3世を「ブルガリアのデスポト、ヴィディンの君主」と呼んでいた〔。
1292年にミハイル3世の父シシュマンがセルビア王ステファン・ウロシュ2世ミルティンと和約を結んだ後、1298年1299年)にミハイル3世はウロシュ2世の娘アンナ・ネダと結婚する〔Fine, 268頁〕。
ウロシュ2世の死後、ミハイル3世はブルガリア帝国の首都タルノヴォにおいて積極的に政治活動に参加することができるようになった。間も無くミハイル3世は宮廷の有力貴族の一員に加わり、1323年に若いゲオルギ2世が子を遺さず没すると、ミハイル3世は貴族たちによって皇帝に擁立される〔Fine, pp. 268–269〕。ミハイル3世が皇帝に擁立された理由について、何人かの歴史家たちは彼が貴族たちに擁立されたのはアセン家の血を引いているためであり、貴族たちにアセン家に代わる新たな王朝の創始者を選出する意図は無かったと推測している〔Божилов, Гюзелев, 562頁〕。
ミハイル3世の皇帝即位後、彼の義兄弟であるベラウルがヴィディンの統治者の地位を継承した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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