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ミハイル・アセン1世 : ウィキペディア日本語版
ミハイル2世・アセン[みはいる2せいあせん]

ミハイル2世・アセン(、1238年から1241年の間 - 1256年)は、第二次ブルガリア帝国皇帝ツァール、在位1246年 - 1256年)。イヴァン・アセン2世エピロス専制侯国の王女イレネ(イリニ、:en:Irene Komnene Doukaina)の子。
== 略歴 ==
異母兄のカリマン1世が毒殺された後にブルガリア皇帝に即位するが、即位当時ミハイル・アセンは年少だった。幼君が帝位に就いた報告を受け取ったニカイア帝国、エピロス専制侯国、ハンガリー王国などの近隣諸国はブルガリアに侵入し、広範にわたる領土を併合した。戦争の結果、ニカイアはセレステッサロニキ、アドリアノープル(現在のエディルネ)、ロドピ山脈地方が含まれるトラキア地方〔森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、126頁〕、エピロスはマケドニアの大部分、ハンガリーはベオグラードを併合した。この領土の喪失にも関わらず、1247年にブルガリアはラテン帝国と戦うニカイアへの協力を強いられた。
1253年にブルガリアはドゥブロヴニクと軍事・商業協定を締結し、ステファン・ウロシュ1世が統治するセルビア王国を攻撃した〔I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)、97頁〕。ブルガリア軍は戦勝を収めてセルビアの奥深くにまで進攻するが、セルビアの征服は失敗に終わる。
1254年にニカイア皇帝ヨハネス3世が没すると、ブルガリアでマケドニアやロドピ山脈地方などの失地回復の機運が高まり、ブルガリアはニカイアに戦いを挑んだ〔。この時成年に達していたミハイルは自ら軍を率いてトラキアに進攻し、現地の住民の協力を得てロドピ山脈地方の城砦の回復に成功する。しかし、迅速に態勢を立て直したニカイアの新帝テオドロス2世はブルガリア軍に奇襲をかけ、ミハイルは森林を通過して逃亡する際に負傷した。1255年にミハイルはクマン人の血族とともにニカイアへの反撃を試みて当初は数回の戦勝を収めたが、軍事行動の性質が変化すると翌1256年に両国は和平を締結した〔。
ニカイアとの和平条約でミハイルとミハイルの義父ロスチスラフ・ミハイロヴィチが譲歩したことに不満を抱いた貴族たちは、ミハイルの甥カリマンを擁立する。1256年の秋にミハイルはタルノヴォ近郊での狩猟中、政敵によって殺害された〔。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミハイル2世・アセン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michael Asen I of Bulgaria 」があります。



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