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ミハイル・カリーニン : ウィキペディア日本語版
ミハイル・カリーニン

ミハイル・イヴァーノヴィチ・カリーニン( , 1875年11月19日ユリウス暦11月7日) - 1946年6月3日)は、ロシア革命家ソビエト連邦政治家オールド・ボリシェヴィキとしてソ連の国家元首にあたる全露中央執行委員長、ソ連最高会議幹部会議長を歴任した。
== 生涯 ==
1875年11月19日、ロシア帝国時代のトヴェリ(Tverskaya Guberniaヴェルフナヤ・トロイツァ村()の農民の子として生まれたユダヤ人。少年時代は地主に雇われ、小学校と地主の家の図書室で学ぶことができた。
1889年、地主の夫人の計らいでサンクトペテルブルクに移り、砲兵工廠、プチロフ工場で旋盤工として勤務した。1891年の16歳の時、プチロフ工場で革命運動に入る。1898年ロシア社会民主労働党に入党する。党分裂後は、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキに属する。以後、幾度か当局による逮捕、追放と脱走を経験する。
1919年、党中央委員に選出。同年3月に全露中央執行委員会議長に就任する。1923年ソビエト社会主義共和国連邦が正式に発足すると、全連邦中央執行委員会議長として第一回大会を取り仕切った。最高会議に改組されると、カリーニンは最高会議幹部会議長に選出され、死去する1946年までその地位を保った。1924年6月、党中央委員会政治局員候補に、1926年1月には政治局員に選出された。
カリーニンは、レーニンによって、労働者、農民の事情に精通した人物と見なされていた。また、国家元首として週に1回限られた人数ではあったが一般市民と接見し、希望を聞くなどしていた。そのためボリシェヴィキの長老として好々爺然とした風貌もあいまって、大粛清が始まると、カリーニンには、多数の請願が寄せられた。カリーニンは、しばしば裁判に介入し、無辜の人々を救済し「愛しき父親、スターリン」に対し、「親切な祖父、カリーニン」と親しまれた。一方で、大粛清やカティンの森事件に公式に署名している。大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放、処刑していた。しかし、カリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあったことで権力闘争から遠ざかっていたことから自身は粛清対象とはならずに命脈を保ったものの、夫人のをトロツキストの容疑で強制収容所に送り込まれている。第二次世界大戦直後にエカテリーナは釈放され、カリーニンも1946年6月3日、モスクワで死去しクレムリンの壁に埋葬された。しかしエカテリーナはその後も国内で軟禁状態に置かれ、死後8年経った1954年にようやく名誉回復となった。
ヴォルガ川沿いの都市、トヴェリは、1931年から1990年までは「カリーニン」に改名された。また、1945年、ソ連に占領・編入された東プロイセンケーニヒスベルクカリーニングラードと改名され、ソ連・ロシア領となった東プロイセン北部はカリーニングラード州と命名された。








抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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