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ミュリエル・スパーク : ウィキペディア日本語版
ミュリエル・スパーク

デイム・ミュリエル・スパーク DBEDame Muriel Spark, DBE, 1918年2月1日 - 2006年4月13日)は、スコットランド小説家
== 生涯 ==
ミュリエル・サラ・キャンバーグ(Muriel Sarah Camberg)はエディンバラユダヤ人の父と聖公会派の母の間に生まれ、ジェームズ・ギルスピー女子高等学校(James Gillespie's High School for Girls)で教育を受けた。1934年から1935年にかけて、彼女はヘリオット・ワット大学で「営業文書および大意筆記」を専攻した。その後は短期間英語教師を務めた後、デパートの秘書役として働いた。
1937年にシドニー・オズワルド・スパークと結婚。彼とともにローデシア(現在のジンバブエ)へ移住し、一人息子をもうけたが、結婚生活は不幸なものであった。彼女は1944年にイギリスへ戻り、第二次世界大戦中は諜報機関で活動した。
戦後、結婚後の名前ミュリエル・スパーク名義で、本格的に執筆活動を開始した。最初は文芸評論が主な活動であり、1947年に『ポエトリー・レビュー』誌の編集者となった。1954年にはローマ・カトリック教会に参加し、彼女自身はこのことが自分が小説家になる決定的な理由だったと見なしていた。スパークの同時代人で、同じく小説家のペネロピ・フィッツジェラルドは、彼女がいかに「自分がカトリック教徒になるまでは、小説家がそうする必要があるように、人間の存在を総括してみるということができなかった、ということを強調していた」かを述べている〔Hal Hager, "About Muriel Spark," Muriel Spark, ''The Prime of Miss Jean Brodie,'' (New York: HarperPerennial, 1999) 141.〕。
1957年に最初の小説『慰める者たち』''The Comforters''が出版されたが、彼女の小説で最も評判となったのは、1961年の『ミス・ブロウディの青春』''The Prime of Miss Jean Brodie''であった。スパークの、主題や語調に対する独創性は、最初期から顕著なものであった。『慰める者たち』には自分が小説の登場人物であることを知っているキャラクターが登場し、『ミス・ブロウディの青春』では登場人物の過去から未来への物語を同時に展開した。
数年間ニューヨークで暮らした後、彼女はローマへと移住し、そこで1968年に彫刻家のペネロピ・ジャーディンと出会う。1970年代初頭に彼女らはイタリアトスカーナ地方に落ち着き、チヴィテッラ・デッラ・キアーナ(Civitella della Chiana)という村で暮らした。この村は2005年に彼女を名誉住民に選んでいる。彼女はニューヨーク時代からしばしばレズビアンであるという噂の対象であったが、本人も友人達も否定していた。
スパークは1992年に英国インガーソル財団T・S・エリオット賞を、1997年に英国文学賞を受賞。1993年には、文学への貢献が認められ、大英帝国勲章を受勲した。
2006年4月13日フィレンツェで逝去。88歳であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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