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ミュンヘンの悲劇[みゅんへんのひげき]
ミュンヘンの悲劇(ミュンヘンのひげき、Munich air disaster)は、1958年2月6日、西ドイツ(当時)・ミュンヘンのリーム空港(現在のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港とは異なり、メッセゲレンデの場所にあった空港)で起こった航空事故。イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機の乗員乗客44名のうち、23名が死亡した。選手は死亡8人、重傷7人。 == 事故とその原因 == 英国欧州航空(British European Airways 略称:BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発。当時のプロペラ機はブリテン島まで無着陸飛行する能力がなく、ミュンヘンに給油のために立ち寄った。給油後、2度離陸を試みるが速度が上がらず中止。不安を感じ当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にも犠牲者を増す結果となった。午後3時4分、3度目の離陸を試みるが離陸速度に達せず、フェンスを突き破り300m離れた空き家に突っ込み炎上。乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが救出した。 西ドイツの調査委員会の報告では当初、翼に付着した氷で翼形が変わり、必要な揚力が得られなかったことが原因で、その確認を操縦士である事故当時36歳だった英空軍出身の機長ジェームズ・セイン(James Thain)が怠ったためとされた。自身を信じてセインは実験を行い西ドイツ当局に訴えたが、頑なに西ドイツは自分達の過失を認めようとはしなかった。当時の英国首相ハロルド・ウィルソンの発言によりマスコミが再び事故を取り上げ、68年イギリスの事故調査委員会の調査では離陸前の写真、救出作業員の証言、関係者証言に基づく実験によって滑走路上のシャーベット状になった氷雪(スラッシュ)が原因とされた。この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。事故後11年してセイン元機長の濡れ衣は晴れたが、事故後解雇されてから心臓発作により54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏で暮らした。 西ドイツが頑なにセインに責任を負わせたことを撤回しようとしなかったのは、翼が凍っていたならばセインの責任だが、空港の滑走路上の氷雪がシャーベット状になった氷雪(スラッシュ)が原因ならば雪を放置した空港即ち西ドイツの過失ということになるため、主任捜査官ハンス・ライケルが目撃者の証言等を握り潰していたからだった。その目撃者とは当時、空港にいた西ドイツの男性パイロットだった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミュンヘンの悲劇」の詳細全文を読む
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