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ミュンヘン新芸術家協会 : ウィキペディア日本語版 | ミュンヘン新芸術家協会[みゅんへんしんげいじゅつかきょうかい] ミュンヘン新芸術家協会(、略称 )は、1909年に設立された、ミュンヘンを本拠地とする表現主義の芸術家グループ。抽象絵画を生んだヴァシリー・カンディンスキーが初代理事を務め、南ドイツの表現主義芸術運動のひとつである青騎士の母体となった。 == 協会史 ==
=== ミュンヘン新芸術家協会に至る構想 === ミュンヘン新芸術家協会の前身となったのは、ロシア人女流芸術家のマリアンネ・フォン・ヴェレフキンが1897年に自身の第二の故郷であったミュンヘンのシュヴァービング区で周囲の知人とはじめた聖ルカ信徒会の「バラ色サロン()」〔Valentine Macardé: ''Le renouveau de l’art picturale russe 1863-1914'', Lausanne 1971, S. 135 f.〕であった。サロンのメンバーは、自分たちのサロンが伝統的な聖ルカ組合の枠内にあると認識していた。当時すでにマニフェストの表明としての展覧会の開催を計画していた〔Gustav Pauli: ''Erinnerungen aus sieben Jahrzehnten'', Tübingen 1936, S. 264 ff.〕。 ミュンヘン新芸術家協会に関して言えば、アイディアはすでにヴェレフキンのサロンで生まれていた。1908年のクリスマスのことである。ヴェレフキン以外にはアレクセイ・ヤウレンスキー、アドルフ・エルプスレーと作曲家のドクトル・オスカー・ヴィッテンシュタイン(1880 - 1919)が参加して、「新芸術家協会」〔Annegret Hoberg: Titia Hoffmeister, Karl-Heinz Meißner: ''Anthologie''. In Ausst. Kat.: ''Der Blaue Reiter und das Neue Bild, Von der ''Neuen Künstlervereinigung München'' zum „Blauen Reiter“'', Städtische Galerie im Lenbachhaus, München 1999, S. 29〕を設立した。さしあたり、ガブリエレ・ミュンターとヴァシリー・カンディンスキーはこの計画を知らされていなかった。カンディンスキーはのちに〔Klaus Lankheit (Hrsg.): Wassily Kandinsky, Franz Marc: ''Briefwechsel'', München 1983, S. S. 29〕、自分のいないところで協会準備のための会合が開かれていたことを知り、怒りをあらわにした。1909年の1月、ミュンヘン新芸術協会の取りまとめ役となることを勧められると、しぶしぶながらもこれを受け入れて怒りを鞘におさめた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミュンヘン新芸術家協会」の詳細全文を読む
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