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ミルコ・ヴチニッチ(, , 1983年10月1日 - )は、ユーゴスラビア(現モンテネグロ)、ニクシッチ出身のモンテネグロ代表サッカー選手である。アル・ジャジーラ所属。ポジションはフォワード。 == 経歴 == === クラブ === 地元クラブでプレーしていた2000年、当時USレッチェのスポーツディレクターだったパンタレオ・コルヴィーノにスカウトされレッチェに入団。2004年にズデネク・ゼーマンがレッチェの監督に就任すると次第にレギュラーで起用されるようになり、2004-05シーズンは29試合で19ゴールを挙げセリエA得点王争いで5位につけるなど才能を開花させる(得点王は24得点を挙げたクリスティアーノ・ルカレッリ)。しかし翌2005-06シーズンは怪我で出遅れ、31試合で9ゴールに終わる。 2006 FIFAワールドカップではセルビア・モンテネグロ代表に選出されるも、怪我のため離脱した。 2006年6月21日に750万ユーロでASローマにレンタル移籍すると、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント準々決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でゴールを決めるなど頭角を表し、シーズン終了後に移籍金750万ユーロでローマに移籍(ただしレッチェとの共同保有)。シーズン当初は左のウインガーとしてプレーしていたが、フランチェスコ・トッティが怪我で長期離脱するとワントップのセンターフォワードとして起用される。するとUEFAチャンピオンズリーグではスポルティングCP戦で決勝ゴールを決めるなど、ストライカーとしても活躍し見事にトッティの穴を埋めて見せた。チャンピオンズリーグ決勝トーナメント・対レアル・マドリード第2戦ではマンシーニに代わってピッチに立ち、彼を倒しにきたペペを退場に追い込むと1点目の基点となり、自身もロスタイムに決勝点を決めた。シーズンオフには新たに移籍金1200万ユーロでローマが保有権を買い取り、完全移籍となった。2008年11月4日のチャンピオンズリーグ・チェルシー戦では2得点を記録し勝利に貢献。しかしアーセナルとの決勝トーナメント1回戦のPK戦ではPKを外してしまい、チームも敗退してしまった。2010年3月20日のウディネーゼ戦では自身初のハットトリックを記録した。4月18日のSSラツィオとのローマダービーではPKと直接フリーキックで2得点を挙げ、チームの逆転勝利に貢献した。 2010-11シーズンはクラウディオ・ラニエリの解任以前は3トップの一角として、ヴィンチェンツォ・モンテッラの就任後はゼロトップ時代のように左サイドでプレー。2010年9月25日のインテル戦では終了直前にダイビングヘッドで決勝点を挙げた。しかし、2011年4月16日のパレルモ戦と4月19日のインテル戦と2戦続けて絶好機でシュートを外して敗戦の戦犯となり〔コッパ決勝進出を諦めないモンテッラ 「逆転は可能」 Livedoorスポーツ 2011年4月20日〕〔デ・ロッシ、コッパ決勝を諦めず Goal.com 2011年4月20日〕、最終的には10得点を挙げたもののサポーターからは大きなブーイングを受け、チームも6位に終わった〔インテル、コッパ・イタリア決勝進出に迫る Goal.com 2011年4月20日〕。 2011年8月1日、ユヴェントスFCに移籍。移籍金は1500万ユーロ。当初の背番号は14番。ユヴェントスではアレッサンドロ・マトリと2トップを形成し、マトリに次ぐ9得点を挙げて9年ぶりのスクデット獲得に寄与した。背番号を9番に変えた2012-13シーズンも連覇の立役者として貢献するも、2013-14シーズンは自身の負傷とカルロス・テベスやフェルナンド・ジョレンテといったFWにポジションを奪われたことで移籍を志願。2014年1月にフレディ・グアリンとのトレードでインテル・ミラノ移籍がほぼ決定だったが、インテルファンの反発を恐れたインテル会長エリック・トヒルが移籍を中断を命令したため成立しなかった〔グアリンとヴチニッチのトレードは破談、インテルが撤退 Goal 2014年1月22日〕。その後、アーセナル移籍の噂が浮上したものの結局残留。 2014年7月4日、アル・ジャジーラ・クラブに移籍決定。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミルコ・ヴチニッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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