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ミルトン・オーベル・ブラッドリー・ジュニア(Milton Obelle Bradley, Jr., 1978年4月15日 - )は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルス市ハーバーシティ地区出身の元プロ野球選手(外野手)。右投両打。 == 経歴 == にドラフト2巡目でモントリオール・エクスポズから指名を受けプロ入り。 に同年のパンアメリカン競技大会の野球アメリカ合衆国代表に選出されている〔1999 Pan American Team Roster ''USABaseball.com'' (2011年5月18日) 2016年2月27日閲覧〕。 7月19日にメジャーデビューを果たした。 7月31日にザック・デイとのトレードでクリーブランド・インディアンスへ移籍。 に.321という高打率をマークし、チーム最多の17盗塁を記録。 4月2日のオープン戦では全力疾走を怠り、エリック・ウェッジ監督ベンチに下げられたため、試合中に宿舎へ帰ってしまった。これが引き金となり〔「30 CLUB MONTHLY REPORT 各球団マンスリー・リポート ロサンゼルス・ドジャース 開幕前日の電撃トレードで活気! ブラッドリーの加入で布陣を再編」『月刊メジャー・リーグ』2004年6月号、ベースボールマガジン社、2004年、雑誌 08625-6、61項〕、4月2日にロサンゼルス・ドジャースへトレードで移籍〔。開幕前に3番打者と言われたエイドリアン・ベルトレに代わり、開幕から3番で出場〔。 9月28日のロッキーズ戦では満塁の場面でブラッドリーの元へ打球が飛んだがそれを落球。そのエラーに対してファンが野次交じりに、ジュース入りのペットボトルをグラウンドに投げ込んだ。その行為に怒ったブラッドリーはファンの元へと歩み寄り、怒鳴りあい、そのペットボトルをスタンドに叩き付けた。それを重く見たバド・セリグコミッショナーから、シーズン終了まで5試合の出場停止処分を言い渡された〔。シーズン終了後の11月にロサンゼルスでスピード違反の際には警察官と口論を演じ、12月には2003年にクリーブランドで起こしたスピード違反が公務執行妨害の有罪判決を受け、3日間刑務所に服役している〔。そのため球団はカウンセラーを雇いブラッドリーの精神安定に一定の効果を挙げた。 はけがで75試合の出場に終わり、シーズン終了後の12月13日にトレードでオークランド・アスレチックスへ移籍〔。 は左肩痛でシーズン前半は故障者リスト入りで多くの試合を欠場。9月23日と9月28日の試合において審判の判定に対して抗議。両試合において退場を言い渡され、1週間に2度退場処分を受けるという失態を演じている。 7月29日にアンドリュー・ブラウンとのトレードでサンディエゴ・パドレスへ移籍。パドレスでは打率.313・出塁率.414を記録。9月23日ロッキーズ戦で一塁審判と口論になり退場の処分を受ける。その後ブラッドリーは審判に詰め寄ろうとし、パドレス監督バド・ブラックはそれを止めようと後ろから抱きかかえるように制止に入ったが、ブラッドリーは倒れ右膝靭帯断裂の負傷でシーズンの残りを棒に振ってしまった〔谷口輝世子 「2007年 裏・事件簿トップ10 1位 ブチ切れ問題児のトホホな顛末」『月刊スラッガー』2008年1月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌15509-1、60項〕。 2007年10月30日に初のフリーエージェントを宣言し〔、12月12日にテキサス・レンジャーズと1年契約で合意。は故障者リスト入りはなかったが、満身創痍ながらプレイ〔。開幕から首位打者争いを続け、オールスターにも選出され、最終的に打率.321はリーグ3位。出塁率.431・OPS.999はリーグ1位。好調の要因の一つはグレッグ・マダックスから投手の心理や打者との駆け引きを教わったことだという〔小林信行 「MLB30球団レポート&全選手個人成績 テキサス・レンジャーズ/TEX 首位打者争いは、あの大投手のおかげ」『月刊スラッガー』2008年11月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌 15509-11、80項。〕。 1月8日、シカゴ・カブスと3年3000万ドルで正式契約。しかし、自慢の打撃で打率.257と不振に陥った挙句、“シカゴではレストランのウェイターまでが文句を言う”“このチームにいても楽しくない”などと発言し、シーズン終了を待たずして自宅に強制送還。オフにはトレード要員となり、カルロス・シルバとの交換でシアトル・マリナーズへ移籍した。 2011年1月18日午前、女性に対する脅迫容疑でロサンゼルス市警察に逮捕され、午後には保釈された。更に同年5月9日には、シアトル・マリナーズから戦力外通告を受けた。戦力外通告前までの成績は、28試合出場で打率.218であった。 2013年7月2日、別居中の妻モニークに対して凶器を使って暴行したり、脅迫を行った罪など軽犯罪9件で有罪となり、懲役960日と保護観察7年の判決が下り、社会奉仕活動400時間を命じられた。モニークはその2ヶ月後の9月14日に亡くなったが、死因は明らかにされていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミルトン・ブラッドリー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Milton Bradley (baseball) 」があります。 スポンサード リンク
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