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ミンドロ島の戦い(ミンドロとうのたたかい、)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年12月13日から2月下旬にかけて、日本軍とアメリカ軍により、フィリピン北部のミンドロ島で行われた戦闘である。アメリカ軍の作戦目的は、ルソン島の戦いの準備として作戦拠点を確保すること、及び全フィリピン諸島を日本軍から解放する一環としてのミンドロ島自体の奪還にあった。圧倒的に優勢なアメリカ軍の攻撃により、日本軍守備隊は全滅した。 == 背景 == 連合国軍南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサーは、ルソン島攻略の重要な基盤として、レイテ島の戦いで飛行場を確保済みのレイテ島よりもさらにルソン島に近いフィリピン北部の島々を第一に確保すべきとした。そのために、ルソン島の真南に位置するミンドロ島は戦略上重要な島であるとされた。レイテ島における不十分な立地条件のなか建設された飛行場は信頼性がないと考えられたため、ルソン作戦の航空支援基地として、ミンドロ島の確保はマッカーサーが切望していたことだった。ミンドロ島は山がちで平原は少なかったが、飛行場適地もあり、戦前から不時着用の滑走路が存在していた。 一方、太平洋戦争初期にミンドロ島を占領した日本軍は、南端のサンホセ周辺に拠点を設け、主に海軍の水上機基地として使用していた。しかし、地上戦力は、第105師団独立歩兵第359大隊から派遣された臨時歩兵2個中隊のみであった。これに後方部隊まであわせると約1千人が駐留していたほか、レイテ島などへ向かう途中に撃沈された輸送船の船員が約200人滞留していた。主力の歩兵2個中隊は、ルソン島に展開した第8師団(師団長:横山静雄中将)の歩兵第17連隊から指揮を受け、サンホセ及び島の北端カラパンに1個中隊ずつが配置され、さらに小隊単位で分散していた。時折、アメリカ軍に友好的なゲリラとの交戦があった。 アメリカ軍は、日本軍の防備が手薄なことを察知しており、上陸は容易なものと考えた。しかし、実際にはかなり手間のかかる事業となった。はじめ、北東方面から、陸海空軍の連携によって上陸するという計画が最善なものと考えられたが、日本軍の航空部隊から反撃される虞があるとして却下された。そこでサンホセの南西にあり、ミンドロ島で最も水深のあるマンガリン湾(en)から上陸するという案が採用された。 アメリカ陸軍第6軍司令官であるウォルター・クルーガー(en)中将の指揮下で、12月15日のミンドロ島への侵攻が決定した。マッカーサーは12月5日の侵攻を要求していたが、クルーガーはレイテ島の戦況及び航空支援の不十分を理由に拒絶した。第24歩兵師団(en, 師団長:ロスコー・B・クルーガー少将)の第19歩兵連隊(en)と、第503空挺歩兵連隊(en, 連隊長:ジョージ・M・ジョーンズ中佐)の2個連隊を基幹とする1万人を投入することとし、これらを「The Warden(「番人」の意)」と名付けて侵攻に備えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミンドロ島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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