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ミール・カマルディン : ウィキペディア日本語版
カマルッディーン・ハーン

カマルッディーン・ハーンヒンディー語:निज़ाम-उल-मुल्क आसफजाह, ウルドゥー語:نظام الملک آصف جاہ اول, ペルシア語:آصف جاه, アラビア語:آصف جاه قمر الدين, Qamar-ud-din Khan, 1671年8月11日 - 1748年6月1日)は、ニザーム王国(ハイダラーバード王国)の初代君主(ニザーム、在位:1724年 - 1748年)。ムガル帝国デカン総督・宰相でもある。ニザームル・ムルク(Nizam ul-Mulk)、アーサフ・ジャー(Asaf Jah)あるいはアーサフ・ジャー1世(Asaf Jah I)とも呼ばれる。
1723年に彼は衰退するムガル帝国を見限りデリーを離れ、1724年にシャカル・ケーダーの戦いで帝国軍を打ち破り独立し、 1948年インドに併合されるまで続くデカンのニザーム王国の始祖となった人物である。
==生涯==

===帝国の忠臣として===

1671年8月21日、カマルッディーン・ハーンは、ムガル帝国中央アジアトルコ系貴族ガーズィー・ウッディーンの息子として生まれた〔Hyderabad 3 〕。
1708年以降のアウラングゼーブ帝没後の帝位継承においては、カマルッディーン・ハーンは全身全霊をもってファッルフシヤル帝を支えた武将として活躍した。
カマルッディーン・ハーンはその即位に尽力し、1713年1月12日にファッルフシヤルは彼に「王国の統治者」あるいは「皇帝の代理人」を意味する「ニザームル・ムルク」の称号を与えた(その語源はアラビア語に由来し、1600年頃にウルドゥー語となったものである)〔。
ファッルフシヤル帝は即位後、カマルッディーン・ハーンをデカン地方へと派遣した。この頃、彼は中央に税を納入しながらも、デカンにおいて自身の権力基盤を形成することとなった。
ファッルフシヤルがサイイド兄弟と対立したとき、1719年1月にカマルッディーン・ハーンにデリーに帰還する命令を出したがすでに遅く、2月にファッルフシヤルは廃位された。そのため、5月9日にミール・カマルッディーンはデカンを出陣し、同月25日ブルハーンプルに陣を構え、サイイド兄弟打倒の機会を狙った〔。
ファッルフシヤルがサイイド兄弟に廃されたのち、ラフィー・ウッダラジャートラフィー・ウッダウラと二人続いたのち、帝位を継承した皇帝ムハンマド・シャーを援助し、1720年末にサイイド兄弟を討伐した。
カマルッディーン・ハーンは皇帝ムハンマド・シャーにその功績を認められ、全幅の信頼を置かれるとともに、1722年2月8日に宰相の地位を与えられ、重用されることとなった〔。同年6月20日、彼はデカン総督に任命され、同地の所領を皇帝からの勅状(フィルマーン)により認められた〔〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.14〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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