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ミール・カーシム(Mir Qasim, ? - 1777年5月8日)は、東インドのベンガル太守(在位:1760年 - 1763年)。イティマード・ウッダウラ(Itimad ud-Daula)〔この称号はムガル帝国の宰相ミールザー・ギヤース・ベグに与えられた称号でもある。〕とも呼ばれる。 == 生涯 == === 太守になるまで === カーシム・アリー・ハーンことミール・カーシムがいつごろ生まれたのかは定かではない。その父はミール・ラーズィー・ハーンといい、祖父はグジャラート太守を務めたこともあるインティアーズ・アリー・ハーンであった〔Murshidabad 8 〕。 ミール・カーシムの前半生もまた明らかではない。いつごろかは不明だが、ベンガル軍の総司令官ミール・ジャアファルの娘ファーティマ・ベーグムと結婚した〔。 ミール・カーシムの名が世間に出てくるのは、1757年にベンガル太守がシラージュ・ウッダウラからミール・ジャアファルに代わり、ミール・ジャアファルとイギリスとの対立が顕著になってきたときからである。その当時、ミール・ジャアファルは軍の兵士やザミーンダールに反抗を受けていたが、ミール・カーシムは反乱を起こした兵士が望む金を出して鎮圧するなどの功績を上げた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.90〕。 1760年2月、ヘンリー・ヴァンシタートはミール・ジャアファルにチッタゴンの収祖権を授与することを断られたのを機に、新たな太守の擁立を企て、太守位を欲していたミール・ジャアファルの娘婿ミール・カーシムと秘密条約(協定)を結んだ〔。その条約では、ミール・ジャアファルを名目的な太守に追いやり、ミール・カーシムが副太守として実権を握ること、またチッタゴン、ミドナープル、バルダマーンの収祖権を与えることが約された〔〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.272〕。 その後、3月にヴァンシタートは首都ムルシダーバードの宮殿にいたミール・ジャアファルに秘密協定を受け入れるように迫ったが、彼は頑として受け入れようとしなかった。ヴァンシタートはミール・カーシムを連れ交渉に再び赴いたが、交渉が行われている間に軍が反乱を起こしたため、ミール・ジャアファルは退位を決意した〔。その代わり、ミール・カーシムには毎月15,000ルピーを年金として支払うことを約束させた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.91〕。こうして、ミール・カーシムはミール・ジャアファルに代わって新たなベンガル太守となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミール・カーシム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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