|
ミールホセイン・ムーサヴィー・ハーメネ(; Mīr-Ḥoseyn Mūsavī-Khāmeneh; 1941年9月29日- )はイラン・イスラーム共和国の改革派の政治家。画家、建築家でもある。1981年から1989年にかけて、第5代にして最後の首相職を務めた。ムーサヴィーは2009年6月現在イラン芸術アカデミー総裁。2009年の第10期大統領選挙に立候補した。「ミール・ホセイン」と区切って表記されることもある。 ムーサヴィーは1989年の憲法改正まで首相を務めた。同改正で首相職は廃止されたため最後の首相である。首相職以前は外務大臣職にあった。公益判別会議議員、文化革命高等評議会員であるが数年にわたり出席していない。政治アナリストや評論家は不満の現れと解釈している。革命初期には、ムーサヴィーはイスラーム共和党機関紙ジョムフーリーイェ・エスラーミー紙の編集長であった。政治的立場は改革派に属するが、保守穏健派からも支持があるとされる。2009年の大統領選挙にあたっては緑色を陣営の色として選択。以降、緑色はイラン全土に浸透している。 また、ムーサヴィーはイラン国内の少数民族であるアゼルバイジャン人である。 == 若年期とキャリア初期 == ミールホセイン・ムーサヴィーは1941年9月29日、イラン東アーザルバーイジャーン州ハーメネに生まれた〔。父ミール・エスマーイールはタブリーズ出身の茶商人であった。ムーサヴィーはハーメネで育ち、1958年に高校を卒業するとテヘランに移った。ムーサヴィーはハーメネに地縁をもつアリー・ハーメネイーの血縁で、ムーサヴィーの祖母はハーメネイーの父方の叔母にあたる。 60年代初期、ムーサヴィーは一人の青年としてイラン自由運動に緊密な関わりを持った〔。イラン自由運動は宗教的・民族主義的政党でメフディー・バーザルガーン、ヤドッラー・サハービー、マフムード・ターレガーニー、モスタファー・チャムラーン、アリー・シャリーアティーらによって結成されたものである。ムーサヴィーは、テヘランのホセイニーイェ・エルシャードで行われるシャリーアティーの講義に定期的に出席する学生活動家の一人であった〔。 建築学の学士号をテヘラン・メッリー大学(現在のシャヒード・ベヘシュティー大学)から取得〔、1969年には、主に伝統的イラン建築に注目して〔、建築学修士号を同じくメッリー大学から取得している。学生生活のかたわら、左翼運動イスラーム学生連盟に活動的メンバーとして参画している〔。 1969年、ムーサヴィーはザフラー・ラフナヴァルドと結婚した。ザフラーは彫刻を専攻する大学研究生で、アリー・シャリーアティーの学生としても著名であった。彼女はのちにアルザフラー大学の学長をつとめており、また前大統領モハンマド・ハータミーの政治顧問ともなっている。 ムーサヴィーは妻とともにイラン・イスラーム革命の成功に積極的役割を果たした。モハンマド・レザー・シャーの君主制に反対する街頭での抗議活動を組織したとして投獄されたこともある〔〔。革命が近づくにつれ、早い段階からチェ・ゲバラを政治的英雄としていたムーサヴィー〔 〕は、闘争により積極的に関わるようになり、まもなく革命指導者ルーホッラー・ホメイニーの緊密な協力者モハンマド・ベヘシュティーの戦列に加わった〔。 1979年1月、シャーは亡命。数週間後にホメイニーがテヘランへ帰還した。 ムーサヴィーはベヘシュティーによる1979年のイスラーム共和党の設立に協力。これはイランにおけるイスラーム共和国の創設と君主制の早急な打倒のためのものである〔。イスラーム共和党でムーサヴィーは政治書記となり〔、また機関紙「ジョムフーリーイェ・エスラーミー」の編集長を務めた〔。 1979年半、ムーサヴィーはホメイニーからイスラーム革命委員会委員に任じられた〔Brownlee (2007), p.103〕。ジョムフーリーイェ・エスラーミーの編集長として、初代大統領アボルハサン・バニーサドルに反対。1981年にバニーサドルが議会の弾劾を受けてフランスへ出国するまで強い非難を加えた〔Baktiari (1996), pp.80-1.〕。 1981年8月15日、モハンマド・アリー・ラジャーイー政権での政府再建の一環として、外務大臣に任じられた〔。首相に昇任する1981年12月15日まで約5ヵ月在任した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミールホセイン・ムーサヴィー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mir-Hossein Mousavi 」があります。 スポンサード リンク
|