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ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ : ウィキペディア日本語版 | ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ(、? - 1099年6月12日)はスヴャトポルク・イジャスラヴィチの子である。スヴャトポルクの子の中では年長の子で、おそらく側室の子と考えられている。ベレスチエ公:1093年 - 1097年〔Шафров Г.М. Генеалогические таблицы по истории европейских государств . Издание 6 исправленное и дополненное (441 таблица) - Москва-Екатеринбург-Ташкент, 2013 - с.1007〕、ヴォルィーニ公:1099年。『原初年代記』には、ムスチスラフの死に関する記述が1097年と1099年の頁に見られるが、V.タチシチェフ(ru)は、ウラジーミル・ヴォルィンスキー包囲戦(ルーシ内戦 (1097年 - 1100年)#内戦後半参照)と死とを関連づけた1099年説を採っており、1097年説よりも可能性が高い。 ==生涯== G.シャフロフの説によれば、ムスチスラフは1093年から1097年にかけてはベレスチエ公であったとされる。一方『ブロックハウス・エフロン百科事典』は、1095年から1097年にかけてはノヴゴロド・セヴェルスキー公であったと記載している。 1098年のゴロデツ諸公会議の決定事項を受けて、ヴォルィーニ公ダヴィド追討軍を発した父のスヴャトポルクは、1099年の聖大土曜日(4月9日)にウラジーミル・ヴォルィンスキーを陥し、ムスチスラフをヴォルィーニ公に据えた。しかし同年、ダヴィドはウラジーミル・ヴォルィンスキーを包囲した。スヴャトポルクは都市城壁の土塁(Заборол:ザボロル(ru)。なおこの件に関する記述が、ザポロルという用語の初出でもある。)付近で射られ、死亡した。終戦後のウラジーミル・ヴォルィンスキーにはムスチスラフの兄弟のヤロスラフがナメストニク(公代理)として配置された。
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