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ムヌイム・ハーン(Munim Khan, 生年不詳 - 1575年10月23日)は、北インド、ムガル帝国の武将・政治家。摂政でもある。ムニム・ハーンとも呼ばれる。ハーン・ハーナーンの称号を持つ人物でもある。 == 生涯 == ムヌイム・ハーンはウズベク人ミーラーン・ベグ・アンディジャーニーの息子としてアンディジャーンで生まれた。 1555年6月、皇帝フマーユーンは長子アクバルを後継者とし、ムヌイム・ハーンをその後見人とした。ところが、バイラム・ハーンがデリー奪還で多大な功績を上げたため、バイラム・ハーンが後見となり、代わりにムヌイム・ハーンはカーブルにいたアクバルの弟ミールザー・ハキームの後見人となった〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.68〕。 第二次パーニーパトの戦いののち、権力を恣にしていたバイラム・ハーンの失脚計画に加わり、アクバルの乳母マーハム・アナガの要請により、ムヌイム・ハーンはバイラム・ハーンがミールザー・ハキームを利用しないよう彼を連れてデリーに赴いた〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.79〕。 1560年3月、バイラム・ハーンが失脚すると、ムヌイム・ハーンが摂政となった〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.80〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152〕。だが、実際の権力はアクバルの乳母マーハム・アナガが握っており〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.81〕、また宰相位はアトガ・ハーンがムヌイム・ハーンを差し置いて握っていた。 ムヌイム・ハーンは自分を差し置いてアトガ・ハーンが宰相となったことに不満を抱いており、マーハム・アナガの息子アドハム・ハーンにアトガ・ハーンの暗殺を唆した〔。調子に乗りやすかったアドハム・ハーンはムヌイム・ハーンに唆され、彼自身もアトガ・ハーンが宰相であることが気にくわなかったため、その暗殺を計画した〔。 1562年5月、ムヌイム・ハーンに唆されたアドハム・ハーンは、アーグラ城の公謁殿でムヌイム・ハーンと会合をしていたアトガ・ハーンを短剣で刺し殺した〔。だが、アドハム・ハーンはまもなくアクバルによって殺害され、そののちムヌイム・ハーンはアーグラから逃げたが捕えられた〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.84〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.47〕。アクバルは彼を赦してその称号も回復させたが、その権力はすべて奪われて、単なる一武将に転落した〔〔。1564年にムヌイム・ハーンはジャウンプル太守となり、任地に赴いた。 1574年秋、ムヌイム・ハーンは総指揮としてベンガル・スルターン朝への遠征にあたったが、トーダル・マルが副将として作戦・軍律の指揮にあたった。また、ラシュカル・ハーンやイティマード・ハーンも派遣され、監察の役割を果たした。同年9月25日、ムヌイム・ハーンはベンガル・スルターン朝の首都ターンダーを占領した〔AKM Yaqub Husain, Munim Khan , Banglapedia: The National Encyclopedia of Bangladesh, Asiatic Society of Bangladesh, Dhaka, ''Retrieved: 2011-05-10''〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.92〕。 1575年3月3日のトゥカローイの戦いののち、その君主ダーウード・ハーン・カララーニーにはオリッサのみの統治権を認めさせる条約を締結させた。その後、ムヌイム・ハーンはターンダーからガウルへと移った。 同年10月23日、ムヌイム・ハーンは流行していたペストに感染して死亡した〔。死後、ダーウード・ハーン・カララーニーによってガウルが奪われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムヌイム・ハーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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