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ムルシア州()は、スペインを構成する自治州の一つ。直訳すると「ムルシア地方」自治州となる。ムルシア県1つからなる一県一州の自治州である。 スペインの南東部、アンダルシーア州、カスティーリャ=ラ・マンチャ州、バレンシア州に挟まれた所に位置し、地中海に面している。行政の州都はムルシアだが、議会はカルタヘーナに置かれている。 温暖な気候を利用して果物・野菜・花卉が栽培されており、スペインのみならずヨーロッパ諸国へ輸出されている。 == 歴史 == カルタゴ人がカルタヘナの海岸に貿易拠点を築き、ローマ人によって「カルタゴ・ノヴァ」と呼ばれるようになった。カルタゴの商人にとって、カルタゴ・ノヴァの山岳地帯は単なるイベリア半島の後背地でしかなかった。ローマ時代には属州ヒスパニア・タラコネンシスの一部であったが、タラコネンシスが分割されたのちはカルタギネンシスの一部となった。 イスラム支配下では大規模な灌漑が導入されて農業が発展した。この時代の地名はトドミル(Todomir)である。11世紀に後ウマイヤ朝が滅ぶと、タイファ諸国の1つムルシア王国の領域となった。ムルシアのタイファは、アルバセーテ、アルメリーア、アリカンテの一部も含んでいた。1086年のサグラハスの戦いで、ムラービト朝は小さなタイファを飲み込み、イスラム教徒支配下のスペインを統一した。 レコンキスタの進展によって、1243年にカスティーリャ王フェルナンド3世に征服された。カスティーリャがムルシアを征服した意義は大きかった。カスティーリャは初めて地中海への入り口を獲得したうえ、イベリア半島の西地中海沿岸を所有するアラゴン王国の南進を止めたのである。フェルナンド3世の後継者アルフォンソ10世は、行政上の理由からムルシアを3分割し、聖職者領主を据えたり、レコンキスタに貢献した者へ報酬として与えたり、11世紀にできた騎士修道会へ与えた。1264年、イスラム教徒が反乱を起すと、アラゴン王ハイメ1世に鎮圧された。1296年、カスティーリャ王国の内紛に乗じてアラゴン王ハイメ2世がこの地を征服したが、1304年の条約でカスティーリャ王国に返還され、アリカンテなど現在のバレンシアの南部はバレンシア王国(アラゴン王国)に編入された。 以後、カスティーリャ王およびスペイン王がムルシアの王を兼ねた。19世紀の県制度によってムルシア県が設立されるまで、名目上ムルシア王国として存続した。1978年の憲法によって自治州制度が導入されると、1982年にムルシアは自治州となった。それまでムルシア地方の一部であったアルバセーテ県はムルシアから離れて、他の4県とともにカスティーリャ=ラ・マンチャ州を創設することを選んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムルシア州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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