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株式会社関東ムービー配給社(かんとうムービーはいきゅうしゃ)は、かつて存在した日本の映画会社である〔『映画年鑑 1978』、p.201.〕〔『映画年鑑 1988』、p.233.〕〔''関東ムービー''、日本映画情報システム、文化庁、2012年7月9日閲覧。〕〔''関東ムービー''、日本映画データベース、2012年7月9日閲覧。〕〔''Kanto Movie''、インターネット・ムービー・データベース 、2012年7月9日閲覧。〕。旧社名株式会社ムービー配給社(ムービーはいきゅうしゃ)〔死ぬほど抱いて 、日本映画データベース、2012年7月9日閲覧。〕。 == 略歴・概要 == 新東宝の最末期に中部支社長だった群馬県出身の桑原正衛(1915年生)が、同社倒産後に中部新東宝興業代表を経て、1965年(昭和40年)5月26日に創業した〔〔〔 『映画年鑑 1960』、p.593.〕。創業に先行して、同年1月、日本シネマが製作、松井康子主演、若松孝二監督『離婚屋開業中』を配給して公開した記録がある〔。以降、翌1966年(昭和41年)末までは、轍プロダクション、若松孝二の若松プロダクション、山辺信雄のヤマベプロダクション、本木荘二郎のシネユニモンド等の製作物を配給していたが、向井寛の日本芸術映画協会、新藤孝衛の青年芸術映画協会等に1969年(昭和44年)までの間に固定化する〔。このころまでの社名は「株式会社ムービー配給社」であった。白黒・カラーのフィルムを混成して編集したものである「パートカラー」を、同社は「セクシーカラー」と名付けてポスター等に表示していた。 1970年(昭和45年)以降、自社製作・自社配給の体制になり、監督も沢賢介、新藤孝衛、関孝二に固定化し始める〔〔。 1974年(昭和49年)12月25日に公開された、小島麻理主演、沢賢介監督の『(秘)香港セックス基地』以降は、配給については大蔵映画が行い、同社は製作業務に専念する〔〔。1976年(昭和51年)の製作本数は7本にとどまり〔『映画年鑑 1978』、p.166.〕、1977年(昭和52年)5月に公開された東祐里子主演、沢賢介監督の『FLESH MARKETS 国際肉体市場』以降は、配給元がミリオンフィルムに切り替わっている〔。同年から翌1979年(昭和54年)にかけて、年間2本を製作してミリオンフィルムに提供していたが、1980年(昭和55年)5月20日に公開された高原リカ主演、平川弘喜監督の『少女早熟』以降、映画の製作あるいは配給を行った記録がない〔〔。 その後の同社の活動は不明であるが、『映画年鑑』には会社情報や巻末広告が1990年代半ばまで掲載されている。1991年(平成3年)には、桑原正樹がすでに社長になっており、監査役も藤井一郎から渡辺省三に変更している記録があり〔『映画年鑑 1992』、p.253.〕、1994年(平成6年)には記載されているが〔『映画年鑑 1994』、p.〕、1990年代後半の『映画年鑑』には社名も社長や取締役の人名も掲載されていない〔 『映画年鑑 1998』、p.244, 318.〕。 ''Screen international film and TV year book 1992'' には、''Kanto Movie Distributors'', 代表は Masaki Kuwahara(桑原正樹)として掲載されている〔''Year book 1992'', p.151.〕。2012年(平成24年)現在、かつて同社が所在した新岩間ビルは現存している〔東京都中央区銀座3-12-18 新岩間ビル 、Google ストリートビュー、2012年7月8日閲覧。〕。同年7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、同社の製作・配給した作品を所蔵していない〔所蔵映画フィルム検索システム 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月9日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「関東ムービー配給社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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