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メクレンブルク=シュヴェリン : ウィキペディア日本語版
メクレンブルク=シュヴェリーン

メクレンブルク=シュヴェリーン(Mecklenburg-Schwerin)は、北ドイツに存在した公国(1815年より大公国)。1348年、メクレンブルク侯アルブレヒト2世とその弟ヨハン1世が、ドイツ王カール4世によって公爵に昇叙され、1352年に領土を分割したことにより成立した。
メクレンブルク=シュヴェリーンはバルト海沿岸のホルシュタインポンメルンに挟まれた位置にあり、神聖ローマ帝国内では比較的弱小な領邦であった。同国を治めたのはスラヴ人の血を引くメクレンブルク家の人々だった。


== 歴史 ==
メクレンブルク家の始祖は、スラヴ人の部族連合オボドリト族の族長の一人ニクロト(1090年 - 1160年)という人物だった。ニクロトはヴェンド十字軍の中で勢力拡大を続けるザクセン族ハインリヒ獅子公に立ち向かい、命を落とした。ニクロトの遺児プリビスラフはハインリヒ獅子公に降伏し、1167年に父祖伝来の領地をドイツ王国の封土メクレンブルク侯領という形で相続した。
メクレンブルクはプリビスラフの子孫たちの間でいくつかに分割相続されていたが、ハインリヒ2世(1266年 - 1329年)は1312年までにシュタルガルトロストックの支配権を獲得、シュヴェリーンヴェルレ一帯を除くメクレンブルク侯領を再統合し、その領土を2人の息子、アルブレヒト2世ヨハン1世に受け継がせた。アルブレヒトとヨハンの兄弟が公爵位を獲得した後、1352年にヨハンはシュタルガルトの支配権を分与され、メクレンブルク=シュタルガルト公国を再創設した。一方のアルブレヒト2世はメクレンブルクの広大な西部地域を保持し、1358年にシュヴェリーン一帯を獲得した後はシュヴェリーンを公爵の居所とした。
1363年、アルブレヒト2世の息子でスウェーデン王マグヌス4世を母方の伯父に持つアルブレヒト3世は、スウェーデンに遠征し、翌1364年にスウェーデン王として戴冠した。しかしその25年後の1389年、アルブレヒト3世はデンマーク摂政マルグレーテに敗れて廃位、又甥デンマーク王エーリク7世に与えられ、メクレンブルク家のスウェーデン支配は1代で終わった。
1436年、最後のヴェルレ領主であったヴィルヘルムが男子を遺さずに死んだ。また、ヴィルヘルムの娘婿としてその遺領を相続したメクレンブルク=シュタルガルト公ウルリヒ2世も男子をもうけないまま1471年に没した。これにより、メクレンブルク=シュヴェリーン公ハインリヒ4世がメクレンブルク全域の唯一の支配者となった。
1520年、ハインリヒ4世の孫であるハインリヒ5世アルブレヒト7世の兄弟は、再び公国を分割相続し、弟のアルブレヒト7世がメクレンブルク=ギュストロウ公国を創設した。同公国は1610年、本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公の領土となった。1621年、アドルフ・フリードリヒ1世は弟のに再びギュストロウ公爵領を分与した。公爵兄弟は三十年戦争でデンマーク王クリスチャン4世を支持したために、1628年に皇帝軍の司令官アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインによって廃位された。しかしその3年後の1631年スウェーデン帝国軍の助けを得て兄弟は復位することが出来た。ヨハン・アルブレヒト2世の息子グスタフ・アドルフ1695年、男子の相続人を残さず亡くなったため、メクレンブルクはフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の下に再統合された。
しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の叔父アドルフ・フリードリヒ2世は、甥に対してギュストロウの相続権を主張し、激しい領土継承争いを引き起こした。1701年、両者は同じニーダーザクセン・クライスに属する帝国領邦の圧力を受け、相続をめぐる争いに決着をつけた。おおよそ中世のメクレンブルク=シュタルガルト公国の領域に相当するメクレンブルク=シュトレーリッツ公国が創設され、アドルフ・フリードリヒ2世に分与された。うち続く相続争いと領土分割は公爵たちの支配権を弱め、メクレンブルクは帝国で最も立ち遅れた地域の一つになってしまった。
1815年ウィーン会議に際してフリードリヒ・フランツ1世は大公の称号を授けられた。1918年第1次世界大戦の終結に伴い君主制が廃止されると、大公国はメクレンブルク=シュヴェリーン自由国となった。1934年1月1日には、同自由国はメクレンブルク=シュトレーリッツ自由国と合邦した。両地域は現在、メクレンブルク=フォアポンメルン州の一部をなしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Grand Duchy of Mecklenburg-Schwerin 」があります。



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