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メグズ砦包囲戦(メグズとりでほういせん、)は、米英戦争2年目の1813年4月28日から5月9日に、オハイオ州北西部で起きた戦闘である。イギリス軍がインディアンの支援を得て、アメリカ軍のできたばかりのメグズ砦を奪おうとした。アメリカ軍は前年にイギリス軍に奪われたデトロイトを取り返すために、この砦から攻勢を掛けようとしていた。アメリカ軍による砦からの出撃や救援の試みは、大きな損失を出して失敗したが、イギリス軍は砦を奪うことができず、包囲を解くことになった。 == 背景 == 米英戦争の初期、デトロイト包囲戦に続いて、ウィリアム・ハル准将の指揮するアメリカ軍が降伏した。デトロイトを回復するためにアメリカ軍は北西方面軍を結成した。この軍をジェイムズ・ウィンチェスター准将が短期間指揮したが、ウィリアム・ハリソンがアメリカ正規軍の少将に任ぜられ、北西方面軍指揮官となった。 ハリソンの進軍は悪天候と物資の欠乏に悩まされた。1813年1月22日、ウィンチェスターが指揮していた前衛部隊が、フレンチタウンの戦いで敗北した。ハリソンはその本隊をモーミー川、すなわちマイアミ・デュ・ラック川まで後退させ、暫定でアメリカ合衆国陸軍長官を務めていたジェームズ・モンローからの叱責があったものの、即座に進軍することを止め、その代わりに前進を再開したときに使うことになる川と道を守るための砦幾つかの建設を命令した。その中でも重要な砦がモーミー川沿いのメグズ砦(オハイオ州知事リターン・J・メグズに因んで名付けられた)とサンダスキー川沿いのスティーブンソン砦の2つだった。 ハリソンは最終的に4,000名となる兵士(大半が民兵)の軍隊と共にモーミー川を下ってメグズ砦の建設地に行き、1813年2月1日に砦の建設を始めた。ハリソンは凍ったエリー湖を渡って対岸のアマーストバーグにあるイギリス軍陣地に奇襲攻撃を掛けることも考えたが、湖の氷が割れ始めようとしており、まだ未完成の砦に戻った〔Elting, p.64〕。後方に残していた士官であるジョエル・B・レフトウィッチが、この任務に割り付けられた民兵隊の徴兵期間が切れるために、部下を全て帰らせていたことがわかった。砦の建設が止まり、切り出されていた木材はたき火に使われた。 ハリソン指揮下のオハイオ州とケンタッキー州の民兵も徴兵期限が切れようとしていたので、その軍隊を解隊し、オハイオ州シンシナティに行って、新たな軍隊を立ち上げることにした。砦を完成させるために工兵少佐のエリエザー・D・ウッドを残していった。守備隊は第17および第19アメリカ歩兵連隊の制服も貧相な数百名であり、これにやはり徴兵期限が間もなく切れるペンシルベニア州とバージニア州の民兵が加わっていた。 砦はモーミー川の南岸、マイアミ早瀬の近くにあった。川の対岸にはイギリス軍マイアミ砦の廃墟があり、1794年にフォールン・ティンバーズの戦いが起きた戦場だった。メグズ砦の敷地は8エーカー (32,000 m2) あり、当時の北アメリカでは最大のものだった。防御柵は高さ15フィート (4.5 m) の棒杭の囲いであり、8棟の小要塞を繋いでいた。北面はモーミー川で守られ、西面と東面は谷になっており、南面のみが木を切りはらわれて開けた斜面になっていた〔Elting, p.105〕。 早春は悪天候が続き、まだ脆弱だった砦に対してイギリス軍の攻撃を妨げていた〔Elting, p.104〕。デトロイト前線のイギリス軍指揮官ヘンリー・プロクターは、プレスク・アイル(現在のペンシルベニア州エリー)への攻撃を急かされていた。そこではアメリカ軍がエリー湖を支配するための船隊を建造しており、プロクターはそこそこの援軍が得られなければ攻撃できないとしていた。その代わりにメグズ砦を攻撃し、夏の作戦のためのアメリカ軍準備を妨害し、あわよくば物資を捕獲しようと考えた〔Hitsman and Mackay, p.141〕。ハリソンはプロクターが出撃準備をしている情報を得て、300名の援軍とと共にモーミー川を急ぎ降り、砦の守備隊を1,100まで増やした〔。ケンタッキー州知事アイザック・シェルビーを説得して、グリーン・クレイ准将の指揮下に1,200名のケンタッキー州民兵旅団を招集させた。クレイの旅団はハリソンの後を追ってモーミー川を下ったが、砦が包囲されるまでには間に合わなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メグズ砦包囲戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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