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メナンドロス1世(''Menandros''、、? - ?)は、西北インドに建てられたギリシャ人によるヘレニズム系王朝(インド・グリーク朝)の国王(在位:紀元前155年頃 - 紀元前130年頃)。仏典では「ミリンダ王(弥蘭陀王、旻隣陀、無崙茶王)」の名前で表記される〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、349,357-358頁〕。仏僧ナーガセーナ(那伽犀那)と問答を交わしたことで知られ、二人の応答はパーリ語(『ミリンダ王の問い』)、漢語(『那先比丘経』)などに訳された。『ミリンダ王の問い』ではナーガセーナとの問いの後にメナンドロスが仏教を信仰するようになったことが記されているが、記述の真偽は明確になっていない〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、368-369頁〕。 == 生涯 == メナンドロス1世はエウテュデモス1世、デメトリオス1世の王統に属する一分家の出身であると考えられている〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、349頁〕 〔森、浪花『ミリンダ王』、17頁〕。 ナーガセーナとの問答の中で、メナンドロス1世は「アラサンダ」が自身の生地だと答えた。アラサンダは「アレクサンドリア」の意であり、各地に存在する「アレクサンドリア」のいずれがメナンドロスの生地であるかで意見が分かれている〔定方「外来民族王朝の興亡」『南アジア史』1、131-132頁〕。フランスの東洋学者アルフレッド・フーシェは、ヒンドゥークシュ山脈南麓のカーピシーをメナンドロスの生地と推測した〔。 『ミリンダ王の問い』の中ではメナンドロスが19種類の学問・技術を修得していたことが述べられ、ギリシャ世界・インド世界両方の教養を身に付けていたと言われている〔森、浪花『ミリンダ王』、19頁〕。また、ナーガセーナとの対話の中で通訳の存在について述べられていないことから、メナンドロスはインドの言語にも通じていたと考えられている〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、368頁〕。父が没した後、おそらくメナンドロスはその跡を継いで即位した〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、354頁〕〔森、浪花『ミリンダ王』、18頁〕。メナンドロスはジャムナ川、ガンジス川流域の東への進出を試み、サケータ()、パータリプトラ(パトナ)を獲得した。しかし、同盟者であるインド諸王の間に起きた対立のため、ガンジス流域を放棄しなければならなかった〔榎「メナンドロス」『アジア歴史事典』9巻、27-28頁〕。 メナンドロス1世はパンジャーブ地方のシャーカラ(サーガラ)を都に定め、アフガニスタンから北インドに至る領土を治めた〔山崎「メナンドロス」『南アジアを知る事典』新版、805-806頁〕。シャーカラの位置について、パキスタンパンジャーブ州のシアールコートを比定する説が有力視されている〔〔〔森、浪花『ミリンダ王』、23頁〕。シャーカラの位置については異説もあり、シェイク・プラ、タキシラとする説もある〔。ラホールの西90kmに位置する都市で、発音が似ており、多くの遺跡が存在するサングラをシャーカラとする意見も存在する〔。 晩年にメナンドロスが譲位し出家したとする伝説が残るが、帝政ローマ時代のプルタルコスはメナンドロスが陣中で没したことを記している〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、355,370頁〕。死後に多くの都市がメナンドロスの遺骨を巡って争ったため、都市の代表者による協議の末に遺骨はそれぞれの都市に分配される〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、355頁〕。インドを支配したギリシャ人君主の中で唯一インド側の文献に名前が記されている人物であり〔『ミリンダ王の問い』1(中村、早島訳)、349頁〕〔森、浪花『ミリンダ王』、16頁〕、プルタルコスは著書『モラリア』でメナンドロスを理想的な王に挙げた〔。 メナンドロスの子孫については明らかになっていないが、アルテミドロスは彼の子孫であると推測されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メナンドロス1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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