翻訳と辞書
Words near each other
・ メネブリア
・ メネム
・ メネメンの虐殺
・ メネラウスの定理
・ メネラオス
・ メネラオス (小惑星)
・ メネラス
・ メネラーオス
・ メネリク
・ メネリク1世
メネリク2世
・ メネリク2世勲章
・ メネン地区
・ メノイティオス
・ メノイティオス (衛星)
・ メノウ
・ メノウ (競走馬)
・ メノクラゲ
・ メノソーマ
・ メノッティ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

メネリク2世 : ウィキペディア日本語版
メネリク2世[めねりく2せい]

メネリク2世ゲエズ語:ምኒልክ、Menelik II、1844年8月17日 - 1913年12月12日)はショアの王、後にエチオピア帝国皇帝(在位:1889年3月9日 - 1913年12月12日)。即位前の名はサーレ・マリアム(Sahle Maryam)。
==生涯==
ショア王(ネグ)のハイレ・マラコトの子として生まれ、王位を継承。王太子時代にはエチオピア中興の祖である皇帝テオドロス2世に攻め込まれ捕虜となったが、かえってテオドロスに可愛がられ、このことが自身に大きな影響を与えた。後にの跡を継いで皇帝に即位した。
第一次エチオピア戦争においてイタリア王国を破り、列強にエチオピアの独立を承認させた。これは、当時のアフリカ大陸の諸王国の中で唯一独立を保つことが出来た事例として有名となった。
ベルギーフランスロシアなど複数の列強国家による資本を導入することによって特定の国家に従属することを避けながら、教育の近代化、電話の普及、鉄道、道路の敷設、アビシニア銀行(後のエチオピア銀行)の設立、郵便、貨幣制度、病院など一連のインフラの整備、政治面では内閣制度の導入などの近代化改革など西洋国家をモデルとした新しい国づくりを始めた。こうしてエチオピアはアフリカ諸国の中でも最も進んだ国となった。しかし1906年脳出血を起こし、以降、皇后の(Taytu Betul)が実権を握ることとなった。
1887年、皇后タイトゥのために作られたエチオピア高原避暑地を首都と定め、アディスアベバ(新しい花)と名付けた。
1907年に後継者として孫のイヤス5世を指名し、1913年に崩御した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「メネリク2世」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.