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メルローズ修道院(Melrose Abbey)は、スコットランド南東部のスコティッシュ・ボーダーズにある町、メルローズに建てられたゴシック様式の修道院である。1136年、スコットランド王デイヴィッド1世の命によりシトー会の修道士らが建立し、メルローズ教区の大修道院長が長を兼ねた。幾度となくイングランドの攻撃を受けては再建、修復されたが、今日残っているのは主として14世紀末以降に赤レンガで造られた外壁部分だけである。この時代の優美な教会建築の貴重な代表的遺構としてヒストリック・スコットランド(スコットランド政府の文化財保護機関)によって管理されている。16世紀末の復元建造物を利用した博物館が併設されており、修道院跡に残されていた彫像をはじめとする資料を見学できる。メルローズ修道院の墓地にはスコットランド王ロバート1世の心臓が埋葬されたという 。 ==歴史== 7世紀、現在のメルローズ修道院より東へおよそ3キロメートル離れた古代メルローズの町に (''Saint Aidan'') を祀る修道院が建てられていた。839年、スコットランド王ケネス1世によってこの修道院は破壊されたが、蛇行するツイード川の曲線にはさまれる形で残された墓地がそこに修道院があったことを示している。この修道院には、後にノーサンブリアのリンディスファーン島で司教となる (''Saint Cuthbert'') もいた。 デイヴィッド1世が同じ場所に修道院を再建することを望んだのに対し、シトー会の修道士らは元の土地は農作に向かないとして、現在の場所に新たな修道院を建築するよう主張した。10年の歳月をかけて建設された教会は、1146年7月28日の東側部分の完成をもって、他のシトー会の修道院と同様聖母マリアに捧げられ、スコットランド修道会の母教会に据えられた。修道院の他の部分はその後、50年間にわたって増築された。 メルローズ修道院は創建時より広範な特権と財産を有していた。発願者であるデイヴィッド1世からは修道院に対し、メルローズと周辺地域の土地やツイード川の漁業権などが与えられ、以降もその財を拡大し続けた。 メルローズ修道院の周りには、徐々に町が形成されていった。修道院は、イングランドとの度重なる戦火に巻き込まれた。イングランド王エドワード1世の2度にわたる攻撃(1300年、1307年)に続き、1322年には同エドワード2世軍によってほぼ全壊させられた後、スコットランド王ロバート1世の支援によって再興された。 1385年にはイングランド王リチャード2世軍が放った火により、修道院はまたも激しく損壊した。この戦いでスコットランド王ロバート2世はエディンバラまで後退を余儀なくされている。一方、リチャード2世は自らの軍が与えた損傷に対する補償を1389年に提供している。このときの修復工事は100年にも及び、ジェームズ4世が1504年に修道院を訪ねた際も未だ続行中であった。 1544年、イングランド軍がまだ幼いスコットランド女王メアリーをイングランド王ヘンリー8世の皇太子(後のエドワード6世)に嫁がせようとスコットランドに侵攻し、修道院は決定的な損傷を受けた。これ以後、メルローズ修道院は完全に修復されることなく、次第に機能を失っていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メルローズ修道院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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