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ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件(ルフトハンザこうくう181びんハイジャックじけん)は、1977年10月に西ドイツのルフトハンザ航空の181便(ボーイング737-200型機)がパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のメンバー4人により乗っ取られた事件。ドイツ赤軍(RAF)が起こした連続テロ事件「ドイツの秋」の一環を成す事件であり、直前にRAFがケルンで起こしたドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤー(Hanns-Martin Schleyer)誘拐事件と密接に関係していた。最終的に、ソマリアのモガディシュにおいて機内にGSG-9(ドイツ国境警備隊(当時)の対テロ特殊部隊)が突入し解決した。モガディシュ事件とも呼ばれる。 == ハイジャック == 1977年10月13日、ルフトハンザ航空181便(ボーイング737-200型機、機体記号D-ABCE、「ランツフート号 Landshut」)はスペイン・マヨルカ島のパルマ・デ・マヨルカからフランクフルト・アム・マインへ、休暇帰りの乗客86人と乗員5人の計91人を乗せて離陸した。離陸後、カップル2組を装って搭乗していた「殉教者ハリメ部隊」(Martyr Halimeh)に属する男性2名、女性2名のパレスチナ人ゲリラ(リーダーは Zohair Youssif Akache、および Riza Abbasi、 Nadia Duaibes、 Souhaila Andrawes )が旅客機をハイジャックした。男2人がコクピットを確保、マフムード(''Captain Martyr Mahmud'')の偽名を名乗るリーダーは銃器と爆発物を持っていると述べて燃料補給のためランツフート号の針路をローマへ変えさせた。 ハイジャックを実行したのはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)だが、その背後にはドイツ赤軍(RAF)の存在があった。ドイツ赤軍(RAF)は、この一月前の9月に起こしたハンス=マルティン・シュライヤー誘拐事件で、西ドイツ政府に対しシュライヤー解放と引き換えにシュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監されているRAFの第一世代に属する幹部ら11人の釈放を求めたが、西ドイツ政府はこれに応じなかった。焦るRAFは西ドイツ政府にさらなる圧力をかけるため、共闘しているPFLPと組んでこのハイジャック事件を起こした。 ハイジャック犯のリーダーは西ドイツ政府の全権特使で政治家のハンス=ユルゲン・ヴィシュネヴスキー(Hans-Jürgen Wischnewski)に対し、RAFメンバー11人の釈放と現金1,500万米ドルを要求しながら、乗員乗客を人質にしてキプロスのラルナカ、バーレーン、ドバイと転々とした。しかしランツフート号はドバイに至るまでにも中東各国に着陸を拒まれ、ドバイから先はアラビア半島のどの空港からも着陸の許可は下りなかった。10月15日、ドバイで、ランツフート号機長のユルゲン・シューマン(Jürgen Schumann)はハイジャック犯の人数を外部へ交信して知らせることに成功するが、これによってリーダーから殺害の脅迫を受ける結果となる。 ランツフート号は同日ドバイを発ち、交渉にあたっていた西ドイツ政府当局はその行方を見失った。この間、ランツフート号はオマーンのサラーラに向かったが着陸を拒否され、南イエメンのアデンに針路を変更した。南イエメン政府も着陸を拒みアデン空港の主滑走路は車両で封鎖されていたが、ランツフート号の燃料は少なくなっていたため、シューマン機長は脇の砂地に強行着陸するしかなかった。無理な着陸によるランディング・ギアの損傷がないか調べるため、機長はハイジャック犯を説得して短時間機外に出る許可を与えられた。 しかし車輪の検査後も機長はすぐに機内に戻ろうとせず、ハイジャック犯が呼び戻そうと何度も叫んでも飛行機を爆破すると脅してもなかなか戻らなかった。すぐに戻らなかった理由は不明だが、いくつかの報告では、機長は南イエメンの当局者に機内に取り付けられたセムテックスの位置を通報し、南イエメンの当局者は機長に対して管制塔に留まるよう強要したとしている〔Mogadishu Rescue 1977 THE REGIMENT〕。機長が最終的に機内に戻りアデンを離陸すると、機長はハイジャック犯らに客席の人質たちの前へと連れ出された。機長は事態を説明しようとしたが、リーダーに頭を撃たれ殺された。 中東の酷暑のなかで長時間留まっていたため客室内は高温になり、人質たちの体力は限界に近付いていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lufthansa Flight 181 」があります。 スポンサード リンク
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