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モザンビーク民族抵抗運動(モザンビークみんぞくていこううんどう、、)は、モザンビークの政党。設立時はローデシアのイアン・スミス白人政権によって設立された反政府武装組織だった。現在の党首はアフォンソ・ドラカマ(:en:Afonso Dhlakama)。 == 概要 == 1975年6月25日に前年のモザンビーク独立戦争の停戦を受けてモザンビークが独立すると政権党のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)は、疲弊しきった経済を立て直すために社会主義を採用した。また1976年3月にFRELIMO政権はアフリカ南部の白人国家ローデシアに対する経済封鎖を行った〔星、林(1978:262)〕。 ローデシア情報機関は、反社会主義派のモザンビーク人にモザンビーク民族抵抗運動を編成させてFRELIMO政権を攻撃させた〔舩田クラーセン(2008:658)〕。この組織は当初ポルトガル語ではなく英語のMNRを組織名としており、また、独立直後のモザンビーク内に白人の手先になって内戦を起こそうとする人々が少なかったこともあって、組織はモザンビーク内で誘拐された青少年によって構成されており、多くの少年兵を大義ではなく恐怖と暴力によって戦わせていた〔舩田クラーセン(2008:658)〕。MNRはローデシア領内の基地から出撃しては各地の村を焼き払い、学校・病院・道路を破壊してまわった。この組織の中核となったンダウ人は独立戦争の際にポルトガル軍に与していた。 1980年にジンバブエが独立し、ローデシアが消滅すると、MNRは隣国に共産主義国ができることを恐れ、アパルトヘイト体制を維持しようとしていた南アフリカ共和国に支援されるようになり、MNRの組織としての自立化と現地化を図った南アフリカの意向もあって、この頃から組織は英語名称のMNRからポルトガル語名称のRENAMOを用いるようになった〔舩田クラーセン(2008:659)〕。1982年にはマラウイに秘密基地を設置し、暴力だけでなく現地住民と交渉を行い支持を得る戦法をも用いて、モザンビーク中部から北部に紛争地帯を広げた。 しかし、東西冷戦の終結に合わせて政府軍のモザンビーク解放戦線が1989年の党大会でマルクス=レーニン主義を放棄し、同時期にそれまでRENAMOを支援していた南アフリカも、新たに政権に就いたデクラーク大統領の下でアパルトヘイト体制の放棄を決定したため、1990年7月以降、イタリアとポルトガルの仲介の下、両者間の和平交渉が開始され、1992年10月にローマでモザンビーク包括和平協定が調印され内戦が終結した。 1994年の初の総選挙では「政府による独裁専制支配への戦い」を強調。市場経済を目指すほか、「職住分離」による集団農場化を推進する政府に反発、「農民に居住と生活の自由を保障せよ」と訴え、初の自由選挙での勝利を掴み取ろうとしたがモザンビーク解放戦線に敗れた。モザンビーク民族抵抗運動はこの選挙結果を受け入れた。 Mz renamo1.PNG|結成当初のRENAMOの旗。 Mz renamo2.PNG|2番目に採用されたRENAMOの旗。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モザンビーク民族抵抗運動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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