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モスクワ大公 : ウィキペディア日本語版
モスクワ大公国[もすくわたいこうこく]

モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: マスコーフスカイェ・ヴィリーカイェ・クニャージストヴァ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシマスコーフスカヤ・ルースィ)とも呼ばれる。
== 概要 ==
アレクサンドル・ネフスキーの死後、その末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領(モスクワ公国)として成立し、14世紀初頭に版図を拡大し、コロムナペレヤスラヴリ・ザレスキーモジャイスクを得た。
ヴォルガ水運の要所にあったこの国は経済的に発展し、1318年には、ノヴゴロドとモンゴルの支持を得て、ダニールの子が初めてウラジーミル大公位を獲得した。
1325年以降、大公位はトヴェリドミトリーおよびその弟アレクサンドルに移ったが、イヴァン1世は1327年のトヴェリにおける反タタール蜂起の際にモンゴルの尖兵として活躍し、1328年にウラジーミル大公位を得た。その後、14世紀60-70年代に、モスクワ公ドミートリー・ドンスコイが及びと戦い、これを従えたことで大公位は安定的にモスクワに保持されるようになった。従ってこの頃を、実質的にモスクワ大公国の成立と考えて良いだろう。この国家の成立は、モンゴルの認可や、あるいは国家成立の宣言等によっては確認されるものではない。1380年クリコヴォの戦いママイに勝利。1389年ヴァシーリー1世が即位。1392年ニジニ・ノヴゴロド公国、タルーサ公国、ムーロム公国ゴロジェッツ公国を併合。
東ローマ帝国の滅亡後、すなわちヴァシーリー2世の時代以降、正教会の擁護者としての意識を高める。1472年イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾイ・パレオロギナ)を2番目の妻とし、ローマ帝国の継承者であることを宣言し、モスクワを(ローマ、コンスタンティノープルに続く)「第3のローマ」と称し、初めてツァーリロシア皇帝)の称号を名乗り、ルーシの諸公国を併合(たとえばノヴゴロド公国1478年、トヴェリ公国は1485年に併合)し、また1480年イヴァン3世ジョチ・ウルスから事実上の独立を果たした()。
1547年イヴァン4世ツァーリ(王または皇帝を意味する君主号)として戴冠する。これ以後、1721年までの間、つまりピョートル1世が元老院からインペーラトル(皇帝)の称号を贈られ、国体を「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国(ロシースカヤ・インペーリヤ)」と称するまで、モスクワ国家はロシア・ツァーリ国(ツァールストヴォ・ルースコエ)と自称する。ただしロシア国外においては一部の国家を除き、“ツァーリ”ないし“皇帝”の位は認められず、1721年まで大公の地位を持ち合わせていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Grand Duchy of Moscow 」があります。



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