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モスクワ講和条約[もすくわこうわじょうやく]
モスクワ講和条約(モスクワこうわじょうやく)は、1940年3月12日にフィンランドとソ連により署名され、同21日に批准された講和条約である〔First published in English as Finland – Union of Soviet Socialist Republics. 〕。105日間に渡って続いた冬戦争に終止符を打ったこの条約は、フィンランドの一部をソ連への割譲することを条件に講和が合意されたが、同時にフィンランドの独立も保証することとなり、結果としてソ連のフィンランドを併合する野望は絶たれた形になった。条約の署名は、ソ連側はヴャチェスラフ・モロトフ、アンドレイ・ジダーノフ、アレクサンドル・ヴァシレフスキーによって、フィンランド側はリスト・リュティ、ユホ・クスティ・パーシキヴィ、カール・ワルデンそしてヴァイオ・ヴォイオンマーによってなされた。 == 背景 == フィンランド政府はストックホルム経由で1月31日にソ連から暫定的な講和条件を提示された。それまで赤軍はフィンランド全土を支配しようとしていたが、この時点においてフィンランドは一定の妥協を示そうと考えていた。ソ連の要求は、フィンランド側がヴィボルグを含むカレリア地峡とラドガ湖のフィンランド湖畔地域の割譲し、ハンコ半島については30年に渡ってソ連に貸すという条件であった。 フィンランドはこれらの要求をすべて却下し、次第にスウェーデン、フランスそしてイギリスに正規軍を提供することを強く嘆願するようになった。客観的に見ればフィンランドは自国の50倍もあるソ連という国に対して長期的には勝ち目はないのと考えるのは当然だが、前線から寄せられる報告は未だ吉報もあり、まだ希望があると判断したフィンランドは、この状況を打破するため国際連盟の介入も期待していた。断続的ではあったものの、フィンランドのこのような嘆願に対して肯定的であったフランスとイギリスの姿勢と、最も援軍提供が現実的であるスウェーデンへの期待をもとにして立案されていた1930年代の作戦が、フィンランドがすぐに講和に立ち入らなかった背景にある(詳しい情報は冬戦争#国際社会の反応を参照)。 1940年2月、フィンランドの最高指揮官であるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは軍事的現状を''悲観的である''と表現し、この後政府は講和条約に向けた会談を2月29日に始めたが同日、赤軍はヴィボルグへの攻撃を開始した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モスクワ講和条約」の詳細全文を読む
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