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モス・テウトニクス
モス・テウトニクス(ラテン語:Mos Teutonicus)は、中世ヨーロッパで、輸送手段を容易にするよう位の高い個人の遺体を厳粛に処置した、『ドイツの慣習』を意味する死後の葬儀の慣習。故人の出身国から遠く離れた土地より、衛生的に故人の骨を輸送できるよう、遺体から肉を取り除く過程が生じた。 ==背景==
第2回十字軍の間、聖地で戦死した、または病死した貴族の亡骸を、故郷から遠く離れたイスラム教の土地に埋葬することは不適当だと考えられていた。遠距離の外国から時間をかけて遺体全てを輸送することは、非現実的であり、多くの場合暑い気候によって早く腐敗がすすんでしまうため、非衛生的であった。ドイツ人貴族たちは特に、埋葬は聖地で行わずむしろ故国の土に還ることを望んだ。12世紀フィレンツェの年代記作家ボンコンパーニョ(en)は、ドイツ人貴族と特異な手続きとを結びつけた最初の人物で、モス・テウトニクスというフレーズを生み出した。 イングランド貴族とフランス貴族は全体的にエンバーミングを好み、遺体とは別の場所に内臓や心臓を埋葬した。エンバーミングを施した遺体の輸送は、腐敗を数日間しかとめられなかった。モス・テウトニクスの長所の1つは、エンバーミングより相対的に費用がかからず、より衛生的になったことである〔。この慣習が存在したことは、10世紀終わりにヒルデスハイム司教ゲルダクが記したことで証明されている〔Alain Erlande-Brandenburg, op. cité, p. 30〕。不可抗力ではあったものの、1270年、イスラムが支配するチュニスで亡くなったルイ聖王は、フランスに輸送するためにモス・テウトニクスの処置がされた〔。遺体を心臓、内臓、骨に分けることをdilaceratio corporisといった〔Bipartition (cœur et corps) ou tripartition (cœur, entrailles et corps).〕。遺体を複数回にわけて埋葬することは、13世紀以降フランス王国内ではカペー朝の特権となった(そのほとんどは王の遺体に対して行われ、時には王妃や王族の遺体に対しても行われた)〔聖王の遺体から抜き取られた心臓がどのような運命をたどったか不明であるが、遺体を3つに切断されたことが確認されている最初のカペー朝の王は、フィリップ3世である。〕。このdilaceratioが、亡き王を称えるための葬儀を倍の数に増加させた(遺体の埋葬が最も重要であったが、心臓の埋葬、内臓の埋葬も別に行われた)し、埋葬地も増えた(遺体の墓、心臓の墓、内臓の墓、モービュイッソン修道院にあるような内臓の墓には王族の巨大な横臥像がつくられた)。 遺体の保存は中世社会で非常に一般的に行われていた。腐敗した遺体は罪深いもの、邪悪なものの象徴とみなされていた〔。エンバーミングとモス・テウトニクスは、墓につくられる故人の彫像と平行して、遺体が亡くなったときのそのままの状態で腐敗せず、静止している状態であると見る者を錯覚させる方法であり、遺体の死後硬直と腐敗という不安のイメージを取り除いたものだった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モス・テウトニクス」の詳細全文を読む
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