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モリー・マグワイアズ(英語:Molly Maguires)は、アイルランド系アメリカ人の秘密結社、またその構成員の複数形。多くの歴史家は、1876年から1878年に一連の世間を騒がせた逮捕劇と裁判が行われるまで、アメリカ合衆国ペンシルベニア州の無煙炭炭田地域に、モリーズ (モリー・マグワイアズの意)が存在していたと考えている。モリー・マグワイアズは誘拐などいろいろな犯罪の犯人とされたが、それはほとんど、ある有力な実業家の主張と、ピンカートン探偵社の探偵の証言に依拠するものであった。モリー・マグワイアズの一員と疑われた者に対して同房の他の収監者が証言することもあったが、そうした証言は強要されたり買収されたものであると考える者もいる。 当時、アイルランド系の坑夫の一部が、搾取的な状況に抵抗すべく策動していたことは、ほぼ間違いない。しかし、トラスト側は、もっぱらモリー・マグワイアズだけを犯罪者集団として狙い撃ちしたようである。これは、アイルランド系坑夫たちが、給料の2割削減をきっかけに起こったストライキの際に、労働組合の戦闘的活動の中核を担っていたためであったものと思われる。その当時は暴力沙汰が日常的になっており、特に秘密の組織を作っていると目されていたカトリックのアイルランド系坑夫たちが、その犠牲となった。 捜査や裁判、また刑の執行も不適切な形で行われた。ピンカートン探偵社の探偵からもたらされた情報は、本来なら探偵者と、依頼者であるこの地域で最も有力な実業家にだけ提供されるはずのものであったが、その情報は、モリー・マグワイアズの一員とされたアイルランド系坑夫たちやその家族を襲撃し、殺害した、自警団の手にも渡っていた。ストライキを打った労働組合を破壊することで経済的利益を得る立場にあった実業家は、モリー・マグワイアズの一員とされた労働者の裁判で、検察官役を務めもした。 モリー・マグワイアズの歴史は、個人的な復讐を動機とした地下活動の告発として描かれることもあれば、組織的な労働運動と強力な産業側との力のぶつかり合いとして描かれることもある。モリー・マグワイアズの組織と、労働組合構成員がどれほど重複していたかは明らかではなく、全く憶測の域を出ない。モリー・マグワイアズが存在したことを示す証拠は全くと言ってよいほど残されておらず、後世に残された情報は、ほとんどが当時の観察者による偏見を帯びた記述である。 ==アイルランドにおける起源== モリー・マグワイアズの起源はアイルランドにある。アイルランドでは、Whiteboys、Peep O'Day Boys などと称した秘密結社が18世紀初頭から現れ、19世紀のほとんどの時期を通して存在していた。歴史家ケビン・ケニー (Kevin Kenny) は、著書『''Making Sense of the Molly Maguires''』において、モリー・マグワイアズと「組織的な連続性が認められるもの」をたどって、19世紀前半のリボンメン (Ribbonmen)、さらにそれに先んじた18世紀末の Defenders に言及している。これとは別に、Ancient Order of Hibernians (AOH) というアメリカ合衆国で設立された組織も、しばしばモリー・マグワイアズに関連づけて語られるが、これは社交組織と表現するのが適切な団体である。一部には、モリー・マグワイアズと リボンメン、AOH の3者を同じ組織の別名と考える者もいるが、ケニーはこうした結びつけ方は疑問だとし、これらをひとつと見なす見方は「(モリー・マグワイアズを)最終的に壊滅させた行為に重要な合理性を与える」ための「戦略」である、と述べている。ケニーの見解では、AOHの組織でも、アイルランドに拠点を置くものは秘密結社であり、その一部には暴力的なものもあるという。ケニーは、アイルランドの北中部や北西部からやってきた指導者たちが「AOHの末端組織を、古典的な Ribbonmen に通じるような目的に変質させていった」過程を描写している。 「リボンメン協会 (the Society of Ribbonmen)」という名の特定の組織も存在していたが、「リボンメン」は、アイルランドの農村部で誰であれ暴力と結び付く者を意味した言葉だった。AOHの公式の歴史によると、AOHの組織はこうしたリボンメンたちによってアイルランドにも広められた。ケニーは、「AOHを、リボニズムから生まれた大西洋の両岸にまたがる組織と見る限り、それは平和的な社交組織であり、暴力的な陰謀組織ではない」と見ている。地域によっては、「リボンメン」と「モリー・マグワイアズ」は同義で用いられるが、リボンメンの組織が「世俗的、コスモポリタン的、プロトナショナリズム的」であるのに対し、モリー・マグワイアズは「農村的、局地的、ゲール的」であるとして、両者の間に線を引く者もいる。 アイルランドにおける農民の反乱は、小規模なジャガイモ栽培のような伝統的な社会経済実践が、囲い込みと牧畜にとって代わられる、といった局地的な事情による土地をめぐる紛争に、その起源を遡ることができる。農民の抵抗は、牧柵の破壊、牧草地に転換された農地での夜間耕作、牧畜の殺傷や解放など、様々な形態をとった。コンエーカー (conacre) と呼ばれた、年間11カ月だけ土地を借りる形態の小規模な農地になっていたところが多い地域では、抵抗は「伝統的な倫理的、社会的規範に反する行いを是正するもの」であり、「当然の報い」と考えられていた。モリー・マグワイアズは、自分たちが「地主たちの法、警察や裁判所の制度の不公正、土地を握っている連中の罪に反対し、自分たち自身の正当な法を」執行しているのだと信じていた。1840年代における、モリー・マグワイアズが「土地を握っている連中」への対応として行った、密かに土地を掘り返してコンエーカーにしか使えないようにするという行為は、1760年代における Whiteboys や、1820年代から1930年代はじめにかけての Terry Alts を踏襲したものであった。 アイルランド北西部のドニゴール (Donegal) では、モリー・マグワイアズが、農民たちが集団として土地の借り受け、地主の差配ではなく自分たちで使用する土地を分配する、ランデール制を行っていた。そこでは「a cow's grass(雌牛1頭分の草)」といった概念、すなわち夏の間に放牧し、冬に干し草を与えて1頭の雌牛を維持できるだけの草が得られる広さが、土地を測る単位として用いられた。土地の分割に際しては、放牧地としての質が考慮されたが、一部では家族の中で土地を再分割することもよく行われた。また、コモンズに準じて共同利用される土地もあった。このような慣行は「記録のない大昔から」存在していたが、借地人の権利を保護する書面による賃貸借契約はなかった。地主たちが新たな土地利用を、例えば、集中的な牧羊のように「極めて破壊的な」実験を、実施しようとすれば、ドニゴールであれ他の場所であれ、それに実力で抵抗する借地人もいた。 地主や、その代理人のほとんどがプロテスタントであったのに対し、モリー・マグワイアズはカトリックであり、このことが両者の関係をこじらせ、複雑にしていく要因となった。農民たちの暴力は、アイルランド人の地主代理人や仲介者、あるいは同じ借地人にも向けられた。商人や製粉業者は、値段を高くすると襲うぞと脅迫された。地主代理人は、脅迫され、殴打され、暗殺されることもあった。誰かが追われた後にその土地を借り受けた新たな借地人も、よく狙われた〔。 地域のモリー・マグワイアズの親玉は、時には女装し、子どもの食べ物を物乞いする母親に変装して、活動しているともされていた。こうした親玉は、商店に出向いて、店員に小麦粉か何か食品を物乞いする。もし店員が恵んでやらないとモリー・マグワイアズが店に入り、この件を通報するとどうなるか店主を脅しながら、手当り次第に商品を持ち去のである。 モリー・マグワイアズという名の起源については、いくつもの民俗伝承がある。モリーという未亡人が家から追い立てられ、家を取り返すために味方してくれる仲間に秘密結社を結ばせたとか、もぐり酒場 (シビーン) の店主がモリー・マグワイアという名で、その酒場が集会場所であったとか、また別の説では、モリー・マグワイアは男勝りの若い女性で、男たちを率いて農村部のあちこちで夜間の襲撃を繰り返した、といった類である。 ケビン・ケニーは、男性が女装して女性名を名乗るという変装が、分かりやすい社会的規範からの逸脱であったということが、最も妥当な説明であろうと考えている。Whiteboys は、白いリンネル(亜麻布)のゆったりとした仕事着 (frock) を衣服の上に重ねて着ていることで知られていたが、モリー・マグワイアズは、燃やしたコルクで顔を黒く塗っていた。ケニーは、顔を黒く塗ったり女性の服を着ることが、無言で演じられる伝統的民俗劇ママーズ・プレイ (Mummers Play) に共通しており、祝祭の日には、無言の演者たちが一軒一軒の家を回り、食べ物や金銭、飲み物などを演技への報酬として求めるのが習わしであったことを指摘している。ほかの秘密結社でも、Threshers、Peep o'Day Boys、Lady Rocks、Lady Clares などは、いずれも女性に変装をすることがあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モリー・マグワイアズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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