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ザ・モンゴリアン・ストンパー(The Mongolian Stomper)のリングネームで知られるアーチー・ゴルディー(Archie Gouldie、本名:Archibald Edward Gouldie、1936年11月22日 - 2016年1月23日〔)は、カナダ・アルバータ州出身のプロレスラー。 そのリングネームの通り、強烈なストンピング(踏みつけ・踏み蹴り)を攻撃の主体とするブルファイターとして活躍した。日本では「踏み潰し野郎」の異名を持ち、アメリカ修行時代のアントニオ猪木ともタッグを組んでいた〔『Gスピリッツ Vol.16』P64-65「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808017)〕。 == 来歴 == アメリカンフットボールで活動後、スチュ・ハートのトレーニングを受け、1960年代初頭にデビュー。地元アルバータ州のカルガリーを皮切りにアメリカ合衆国にも進出し、ノースカロライナやテキサスのアマリロなどを転戦してキャリアを積む。1963年にカンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区に入り〔、同地区のブッカーだったパット・オコーナーのアイデアでモンゴリアン・ストンパーに変身〔。翌1964年、日本から海外武者修行のために遠征してきたトーキョー・トムことアントニオ猪木との「(偽)アジア人コンビ」で売り出された〔。 猪木の帰国後もモンゴリアン・ギミックのヒールとして活躍し、1965年4月16日にロン・リードからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を、8月14日にロニー・エチソンから同地区版のUSヘビー級王座をそれぞれ奪取。1966年4月12日と5月17日にはジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。同年12月31日には当時アメリカン・レスリング・アライアンスのテリトリーだったサンフランシスコにて、サイクロン・ネグロと組んでレイ・スティーブンス&パット・パターソンのブロンド・ボンバーズからサンフランシスコ版のAWA世界タッグ王座を奪取した。 以後、アメリカではストンパー、カナダでは主に本名のアーチー・ゴルディー名義で活動。カルガリーに戻ると、1968年2月28日にトーナメントの決勝でパット・オコーナーを破り、後にダイナマイト・キッドやブレット・ハートも戴冠する同地区のフラッグシップ・タイトル、スタンピード北米ヘビー級王座の初代チャンピオンとなる。同年7月にはキニスキーのNWA世界ヘビー級王座に再挑戦した。以降もカルガリーのスタンピード・レスリングを主戦場に、北米ヘビー級王座を巡ってビル・ロビンソンやアブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・トーア・カマタ、オックス・ベーカー、スタン・スタージャック、アンジェロ・モスカ、カール・フォン・ショッツらと抗争を展開、カナダを代表するトップ・レスラーとなった(以後、同王座には1983年まで計11回戴冠)〔。 カナダではマリタイム地区のイースタン・スポーツ・アソシエーション(後のアトランティック・グランプリ・レスリング)でも活動し、1969年8月12日にノバスコシア州ハリファックスにて、同地区のフラッグシップ・タイトルであるESA北米ヘビー級王座をザ・ビーストから奪取。以降もボボ・ブラジル、キラー・カール・クラップ、ボロ・モンゴル、レオ・バークらと王座を争った〔。 1971年1月、日本プロレスに初来日。「アメリカ修行中に猪木とタッグを組んでいたが、そのあまりにも残虐な試合ぶりに猪木が激怒して仲間割れ、猪木への復讐のために日本に来襲」などというサイド・ストーリーも用意され注目を集める〔『THE WRESTLER BEST100』P216-217(1981年、日本スポーツ出版社)〕。1月7日にはザ・ケンタッキアンをパートナーに、大阪府立体育館にてジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。2月2日には広島県立体育館にて馬場のインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦して引き分けるなどの活躍を見せた〔。翌1972年11月の再来日ではキラー・カール・コックスとの凶悪コンビで猛威を振るった〔。 以降もカナダを本拠地に、テネシー、アラバマ、フロリダなどアメリカ南部も転戦。各地のローカル・タイトルを奪取する一方、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコ、テリー・ファンクなど1970年代の歴代NWA世界王者に再三に渡って挑戦。暴走の限りを尽くしての名誉の反則負けで「幻のNWA世界チャンピオン」とも呼ばれた〔『ゴング』1976年10月号 P92「テリー完敗! ストンパーが新NWA世界王者に…?」(1976年、日本スポーツ出版社)〕。カルガリーでは1974年にハーリー・レイスとも北米ヘビー級王座を争っている〔。 アメリカでは1975年よりテネシーのNWAミッドアメリカ地区を主戦場とし、1977年より発足したジェリー・ジャレットの新団体CWAにも継続参戦。ジェリー・ローラー、ジャッキー・ファーゴ、ボブ・アームストロング、ロッキー・ジョンソン、ビル・ダンディー、トミー・リッチらと抗争を繰り広げた。ローラーとはタッグも組み、1978年9月にジョー・ルダック&ジャン・ルイから南部タッグ王座を奪取している。1979年5月14日にはメンフィスのミッドサウス・コロシアムにて、当時テリー "ザ・ハルク" ボールダーと名乗っていた若手時代のハルク・ホーガンとも対戦した。 1979年11月、同じくテネシーを主戦場としていたジプシー・ジョーの仲介で国際プロレスに来日、久々の日本マット登場を果たす。ジョー、アレックス・スミルノフ、上田馬之助ら常連の主力ヒールが顔を揃えたシリーズにおいて外国人陣営のエースとして迎えられ、12月4日に後楽園ホールにてラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦した〔『忘れじの国際プロレス』P101(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。国際には翌1980年2月にも来日し、3月8日に鹿児島県立体育館にて木村に再挑戦している〔。同年9月には日本プロレスへの初来日時に一緒だったビル・ドロモや、後にミッドナイト・エクスプレスのオリジナル・メンバーとなるランディ・ローズとノーベル・オースチンらを配下に「ストンパー軍団」を結成しての参戦が告知されたが、急性気管支炎を患い来日中止となった(代打には、ストンパー本人が自分に代わるリーダーに指名したという触れ込みでロン・バスが来日)〔『国際プロレス クロニクル 下巻』特典付録CD-ROM 国際プロレス全パンフレット「1980年 ダイナマイト・シリーズ」(2011年、クエスト)〕。 その後、ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、1980年12月12日にジャック・ブリスコからNWAナショナル・ヘビー級王座を奪取。翌1981年5月29日にスティーブ・オルソノスキーに敗れるまで、アンドレ・ザ・ジャイアント、ダスティ・ローデス、ミスター・レスリング2号、テッド・デビアス、トニー・アトラスなどの強豪を相手に防衛戦を行った。テネシーやジョージアと並行して参戦していたアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングでは、1978年から1981年にかけて、ロバート・フラー、ロニー・ガービン、リッキー・ギブソン、ディック・スレーター、ジェリー・スタッブスらを破り、フラッグシップ・タイトルのNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を通算11回獲得している。 国際プロレス崩壊後の1982年3月にはNWAルートで全日本プロレスのチャンピオン・カーニバルに出場。公式リーグ戦ではブルーザー・ブロディとバック・ロブレイの乱入もあってジャイアント馬場と引き分けるなど、初来日時のインター戦を再現したが、優勝戦線に浮上するには至らず、これが最後の来日となった。帰米後はテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングに進出、7月にディック・スレーターを破りサウスウエスト・ヘビー級王座を獲得した。 1983年より古巣のカルガリーに定着し、北米ヘビー級王座を巡ってバッドニュース・アレンと抗争。「息子」のストンパー・ジュニアことジェフ・ゴルディーとの親子タッグ〔実際の親子ではなく、ギミック上の設定である。ジェフは後にマーティ・ジャネッティとの「アップタウン・ボーイズ」やマイク・デービスとの「ロックンロールRPMs」で活躍するトミー・リー・ジョーンズ(a.k.a. トミー・ロジャース、トミー・レーン)で、ストンパーの実質的な弟子であり、彼のブッキングでセントラル・ステーツ地区やテネシーCWAを主戦場としていたが、大成はできなかった(Online World of Wrestling )。〕や、キラー・カーンとのモンゴリアン対決も実現した。1984年3月、カルガリーとの提携ルートで新日本プロレスへの参加が決定していたが急遽キャンセルしている。1985年下期からはバーン・ガニア主宰のAWAに参戦、シーク・アドナン・アル=ケイシー率いる反米軍団に加入してボリス・ズーコフやノード・ザ・バーバリアンと共闘し、サージェント・スローター、ジェリー・ブラックウェル、カート・ヘニング、スコット・ホール、ロード・ウォリアーズらと抗争した。 その後はサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングの後継団体コンチネンタル・レスリング・フェデレーションを経て、キャリア晩年の1990年代前半はジム・コルネット主宰のスモーキー・マウンテン・レスリングに出場していた〔〔。引退後は長年の主戦場でもあったテネシー州ノックスビルに居住し、刑務官に転じていた。 2016年1月23日、ノックスビルの病院にて睡眠中に死去〔〔。〔。晩年はアルツハイマー病を患い〔、死亡日の2週間前に転倒して腰の骨を折り、手術を受けたものの回復はしていなかったという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンゴリアン・ストンパー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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