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モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻 : ウィキペディア日本語版 | モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻[もんごるのう゛ぉるがぶるがーるしんこう]
モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻は1223年に始まった。この時はモンゴルを退けたヴォルガ・ブルガールであったが、1236年のバトゥによる征西軍による攻撃では主要都市を破壊され大打撃を受けた。 == モンゴルの攻撃 ==
=== 1223年 ===
ヴォルガ・ブルガールがモンゴル人の軍団と遭遇したのは1223年のことであった。スブタイおよびジェベの率いるモンゴル帝国軍は、ホラズムを出てカフカスを迂回し、キプチャク草原に入って5月31日のカルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネツィク州付近)でルーシ諸国とキプチャクの連合軍を大敗させた。この時点で、チンギス・ハンの軍は負け知らずであった。彼らは分隊をヴォルガ川を遡ったところにあるヴォルガ・ブルガールへと派遣した。しかしその年の秋、ヴォルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州の、ヴォルガ川屈曲部付近)で、ヴォルガ・ブルガールはモンゴル軍を大敗させた(あるいはケルネクの戦い)。ブルガールの王(iltäbär)、(Ghabdulla Chelbir)率いる軍は、モルドヴィン人の公(inäzors)である(Puresh)および(Purgaz)の軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せしてさんざんに打ち破ったという。この戦いについてはブルガールの口承による部分が多く、戦いの実際や被害については不明な点も多い。この戦いの後、モンゴル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。
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