|
マッドドッグ・バション(Mad Dog Vachon)のリングネームで知られるモーリス・バション(Maurice Vachon、1929年9月14日 - 2013年11月21日)は、カナダのプロレスラー。ケベック州モントリオール出身のフランス系カナダ人。 オリンピック代表にも選ばれた正統派のレスリング技術と、マッドドッグ(狂犬)の異名通りの凶暴な喧嘩ファイトで、180cmに満たない小柄な体格ながら30年以上トップスターとして活躍した。地元のモントリオールではプロモート業も手掛けた。 弟のブッチャー・バション(ポール・バション)もプロレスラーで、タッグチームのバション・ブラザーズとしても実績を残した。妹のビビアン・バションもまたプロレスラー(夫はバディ・ウォルフ)。女子プロレスラーのルナ・バションはポールの娘でモーリスの姪にあたる(夫はデビッド・ヒース)。 == 来歴 == 13人兄弟の一人として生まれる〔。10代よりレスリングで頭角を現し、カナダのナショナルチームに入る。1948年にはロンドンオリンピックに19歳でカナダ代表として出場した〔。1950年にプロ入り〔。地元のモントリオールを主戦場に、当初はベビーフェイスのポジションで活動していたが、同地区のヒーローだったユーボン・ロバートに全治5週間の怪我を負わせた一戦を機に、1955年よりヒールに転向〔『THE WRESTLER BEST 1000』P34(1996年、日本スポーツ出版社)〕。以降、マッドドッグの異名を持つクレージーファイターとして、後にモントリオールにて興行戦争を展開することになる "ハンサム" ジョニー・ルージョーらと抗争した。1959年からはカルガリーにて弟のブッチャー・バションとタッグチームを結成。テキサスやミッドアトランティックなどアメリカ南部にも進出し、各地のタッグタイトルを獲得した〔。 1962年、ブッチャー・バションとのコンビを一時解消して太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングに参戦。10月4日にルーサー・リンゼイからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を奪取し、以降もビリー・ホワイト・ウルフ、ニック・ボックウィンクル、ザ・デストロイヤー、スタン・スタージャック、ムーンドッグ・メインらとタイトルを争った。 1964年よりAWAを主戦場とし、同年5月2日にネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。同月中にガニアに奪回されるが、その後もガニアと抗争を繰り広げて王座に返り咲き、1967年にかけて通算5回戴冠〔、パット・オコーナー、ムース・ショーラック、モンゴリアン・ストンパー、ジャック・ランザ、ドン・ジャーディン、イゴール・ボディック、ウイルバー・スナイダー、ダニー・ホッジ、ディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー、ミスター・レスリング、アーニー・ラッド、キラー・コワルスキーなどの強豪を相手に防衛戦を行った。1969年8月30日にはブッチャー・バションと組んでディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからAWA世界タッグ王座も奪取するなど、AWAのトップ・ヒールとして活躍したが、バーン・ガニアとの抗争においては狂乱ファイトを抑え、正統派のレスリングの攻防を披露することもあった。 モントリオールでの活動も続け、5度目のAWA世界ヘビー級王座戴冠中の1967年1月24日には、ハンス・シュミットから同地区認定のインターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版IWA世界ヘビー級王座)を奪取。両団体のフラッグシップ・タイトルの二冠王となった。1960年代末はアメリカ西海岸のロサンゼルス地区にも時折出場しており、WWA世界ヘビー級王者のボボ・ブラジルに挑戦したほか、ミル・マスカラスやフレッド・ブラッシーと対戦している〔『Gスピリッツ Vol.20』P64(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809218)〕。 AWAでは1971年下期よりベビーフェイスに転向し、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソンなどのヒール勢と対戦。大悪党から人気者に転じ、1972年にはブッチャー・バションとのコンビでダスティ・ローデス&ディック・マードックのテキサス・アウトローズと抗争した。AWAでの活動と並行して、1970年代には故郷のモントリオールにて自らの団体グランプリ・レスリング(''Grand Prix Wrestling''、略称:GPW)を主宰。エドワード・カーペンティア、キラー・コワルスキー、ドン・レオ・ジョナサンなどを招聘し、エースレスラー兼プロモーターとしても活動した。1975年は7月と10月にテキサスのアマリロ地区にスポット参戦し、ドリー・ファンク・ジュニアやテリー・ファンクとも対戦している。 GPWの運営を離れた1976年にヒールに戻り、AWAやNWA中西部でバロン・フォン・ラシクとのタッグなどで活動するが、1978年下期より再びフェイスターンを決行〔。50歳を目前とした1979年6月6日、かつての仇敵ガニア(当時53歳)とのチームでレイ・スティーブンス&パット・パターソンを破り、AWA世界タッグ王座を獲得〔、翌1980年7月20日にジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスに明け渡すまで、1年以上に渡って保持した(その間、カナダのウィニペグにてスタン・ハンセン&ボビー・ダンカンに王座を奪われたともされている)〔。その後も大ベテランのベビーフェイスとしてAWAのリングに上がり、1983年には、当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンともタッグを組んでいる。 キャリア末期の1984年にはWWFと契約し、同年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアによる全米進出サーキットに参加。AWA圏での興行を中心に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにも出場した。WWFではアンドレ・ザ・ジャイアントやダイナマイト・キッドとのタッグチームも実現している。1986年、ケベックにて引退ツアーが行われ、36年におよぶキャリアに終止符を打った〔。 引退後の1987年に交通事故で右足を切断したが、その後も度々WWEの興行や番組にスペシャル・ゲストとして登場。2010年にはWWE殿堂に迎えられ〔、車椅子でセレモニーに出席した(インダクターはAWAでの旧敵パット・パターソン)。 2013年11月21日、ネブラスカ州オマハにて死去〔〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マッドドッグ・バション」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Maurice Vachon 」があります。 スポンサード リンク
|