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モーリハイ(? - 1469年?〔松村「モーリハイ」『アジア歴史事典』9巻、64頁〕)は、北元の部族長。オンリュート部の指導者。 チンギス・ハーンの同母弟であるジョチ・カサルの後裔〔森川「明代のモンゴル 分裂と抗争の時代」『北アジア史』、93頁〕、あるいはチンギスの異母弟ベルグテイの後裔〔岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、69-70頁〕と言われる。漢文史料では毛里孩と表記される。 1454年にオイラト部族のエセンが殺害された後、ハラチン部のボライ・タイシの下でモンゴル高原で勢力を拡大した。1465年にボライがマルコルギス・ハーンを殺害した後、ボライを暗殺する〔。部下からハーンへの即位を進められるが辞退し〔〔、マルコルギスの異母兄であるモーランを擁立する。敵対者である斡羅出を追放してモンゴル内の実権を握り、明の大同に侵入した〔『騎馬民族史 正史北狄伝』3巻、24頁〕。 1466年にモーランを殺害した後、モーリハイは新たなハーンを立てず、北元の空位時代が始まった〔。1467年に明の皇帝成化帝は撫寧侯・朱永らにモーリハイ討伐を命じるが、モーリハイが通貢を願い出たため遠征は取りやめになった〔。翌1468年、明の給事中・程万里はモーリハイの討伐を奏上するが、彼の意見は容れられなかった。 モーリハイはジョチ・カサルの後裔であるホルチン部のウネバラトに敗れて没落し〔〔岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、70頁〕、クングイ・ジャブハンの宿営地で6人の子と共に殺害された〔。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モーリハイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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