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ヤクブ・ベクの乱[やくぶ べくのらん]
ヤクブ・ベクの乱(ヤクブ・ベクのらん)は、清末の1860年代から1870年代にかけての、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れ、ヤクブ・ベクが臣下に殺されることで崩壊した〔京大東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』、東京創元社、1990年、P842。〕。 == 前史・背景 ==
=== 清による東トルキスタンの併合 === ジュンガルと清朝の東トルキスタンの覇権を巡る戦争は1690年から1759年まで続いた。1755年、清の乾隆帝は先代康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する〔。1757年2月に乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた〔『清史稿』に記録。今谷 明「中国の火薬庫」pp.98-99〕。1759年、清はジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した〔加々美光行:2008年,85頁。〕。この時、兆恵(ジャオフイ)とフデ(富徳)の二人の将軍は各8000の兵でイリ地方の掃討戦を行う〔今谷 明「中国の火薬庫」pp.100-101〕。「囲猟」すなわち山狩りによって、オイラート人は壊滅した〔今谷 明「中国の火薬庫」pp.101〕。 清朝は1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行い〔「テュルク語定期刊行物における民族名称「ウイグル」の出現と定着」大石真一郎 北海道大学スラブ研究センター研究報告シリーズNo.89「東欧・中央ユーラシアの近代とネイションⅡ」2003年3月.〕〔佐口透『新疆民族史研究』吉川弘文館、1986年、253-291頁。 〕、1764年には満洲のシベ族兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した〔陳舜臣 「中国の歴史 12 清朝二百余年」平凡社 1982年、 3-7頁〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤクブ・ベクの乱」の詳細全文を読む
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