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ヤークトパンター(Jagdpanther)は第二次世界大戦中にドイツで開発された駆逐戦車である。火力・防御力・機動力が高く、また他のドイツ重駆逐戦車に比較して信頼性に優れ、総合的にバランスのとれた装甲戦闘車両であった。 == 開発経緯 == 本車はパンター戦車の車体を利用し、前面装甲および側面上部を上方へ延長して戦闘室を構築、ここにパンターよりも口径の大きい88mm砲を搭載した。エンジン、走行装置などはパンターとほぼ同一である。こうした駆逐戦車が要求される前段階として、ドイツ国防軍は自動車牽引型の対戦車砲に対して機動力の点に不満を持ち、実用性の高い自走砲形式の戦闘車輛を要求したことが挙げられる。 陸軍兵器局は1942年8月3日に、新型のパンター戦車の車体に新規の8.8cm対戦車砲を組み合わせることを提案した。この時の量産予定は1943年7月であった。クルップ社に開発が要請されたものの、同社はIV号戦車の車体に88mm砲を搭載する作業に従事しており、1月までに設計図を作成することは無理であった。そこで10月にダイムラー・ベンツ社へ開発作業が移され、1943年夏には車輛を製造することを目標とした。クルップ社は設計の支援及び主砲と砲架の開発に当たった。ダイムラー・ベンツ社の設計はパンターIIの車体を基として行われ、1943年1月には技術的な詳細が決定された。しかし、1943年5月にはパンターIIの製造計画が中止され、8.8cm重突撃砲もまた、パンターIの車体を利用して製造されることとなった。改良点の変更は迅速に行われた。また1943年5月24日、ダイムラー・ベンツ社からMIAG社に製造が引き継がれた。パンターIIの設計によって改良すべき点はパンターの車体にも引き継がれ、改良済みの量産型車体は9月に工場で製作された。1943年6月、ダイムラー・ベンツ社は「71口径8.8cm砲搭載パンター中駆逐戦車」のモックアップを完成させ、MIAG社はこれを参考とした。試作車輛は1943年10月にMIAG社にて完成した。11月には試作2号車が完成した。 量産は当初5輌から10輌程度がほそぼそと毎月生産された。製造遅延の大きな原因は変速機、操向変速機、そして駆動系統の強化であった。さらにMIAG社の労働力の不足と空襲も遅延の原因となった。1944年11月にはMNH社(ニーダーザクセン・ハノーファー工機製作所)とMBA社(マシーネンバウ・ウント・バーンベダルフ社)が生産に加わり、この状況は改善を見た。しかし最高生産数は1945年1月に72輌というものであり、以後数10輌のペースで生産が進んだものの、連合国の車輛生産数には到底抗し得るものではなかった。生産数は1944年1月~1945年4月の間にMIAG、NMH、MBA各社により計415輌と、比較的少数に終わった〔シュピールベルガー『重駆逐戦車』p25。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤークトパンター」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jagdpanther 」があります。 スポンサード リンク
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