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ヤコブの浅瀬の戦い : ウィキペディア日本語版
ヤコブの浅瀬の戦い[やこぶのあさせのたたかい]

エルサレムは世界の最も神聖な都市の一つだと多くの人によって考えられてきており、このためにキリスト教徒イスラム教徒は何世紀もの間この聖都の支配権をめぐって戦ってきた。1095年あたりにヨーロッパからキリスト教徒はエルサレムの支配権を取り返すべく聖地へと進軍した。1099年までに十字軍は目的を達成してイスラム教徒からエルサレムを奪った。第一次十字軍の後イスラム諸勢力の反攻に対する不安が聖都を悩ませたため、十字軍は引き続き数年に亘り彼らと対立していた軍をいくつか破った。イスラム史で最も著名な人物の一人、サラディンはキリスト教徒が聖地を支配した約1世紀後、1187年にエルサレムを再占領した。多くの学者たちはイスラムの聖都の奪取は1179年にイスラムのスルタンサラディンとキリスト教徒のボードゥアン4世王とのシリアヤコブの浅瀬での十字軍へのイスラムの勝利に帰することができると考えている。その場所はラテン語名のヴァドゥム・イアコブ(Vadum Iacob)、現代ではヘブライ語アテレトとしても知られている。

== 当時の情勢 ==
最も有名なイスラムの支配者の一人、サラディンはエジプトのスルタンであり、ダマスカスを奪取した後、1174年までにシリアのスルタンになった〔Bridge, p. 186〕。シリアでの権力を奪取した後、サラディンはエルサレムの周りにイスラム帝国を打ち立てることを誓った。最終目的は十字軍からの聖都奪回であり、ジハードの終焉への大きな意味を持った一歩であった。しかし、彼のその計画は特に軍事衝突なしに聖地を奪取することを目指していた。ボードゥアン4世は1174年の父アモーリー1世の崩御に伴い、13歳でエルサレム王国の王位に付いた。同年にはサラディンもダマスカスで権力の座に登った。ボードゥアンは敬虔なキリスト教徒であり、サラディンとは相反する立場であった。富裕で有力な指導者であったにもかかわらず、ボードゥアンは非常に若くしてハンセン病を患っていた。映画(「キングダム・オブ・ヘブン」)で時折表現され描かれたように、ボードゥアンは忌まわしい顔を覆うただれを隠すために鉄の仮面をかぶっていた。
エルサレムの王位に登っておよそ3年後、ボードゥアンは最初の軍事的対立に直面した。サラディンは1177年にエルサレム王国に侵攻したが、撃退された。サラディンはほぼ20歳年上でボードゥアンより経験を積んでいたにもかかわらず、若きキリスト教君主は緊張の多い状況にまごつくことはなかった。ボードゥアンと彼の軍は1177年11月25日モンジザールの戦いでイスラム軍に大打撃を与えた〔Madden, p. 72〕。ある学者は、この戦いについて「これは際立った業績――サラディンがリチャード獅子心王第3回十字軍の到来以前に喫した唯一の会戦における敗北であった」〔Asbridge〕と記述した。その戦いが終わってから、サラディンは命からがらエジプトへの逃走を余儀なくされた。その勝利はボードゥアンの軍隊に大損害をもたらしたが、王国中の彼のイメージは強化された。事実、近東のいくらかのキリスト教徒たちは「彼の勝利の『奇跡』は神の命令の徴候を現した」と信じるようにさえなった〔Asbridge〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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