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ヤシの葉 : ウィキペディア日本語版
ヤシの葉

ヤシの葉』(原題:Palmetto Leaves)は、アメリカ合衆国の作家ハリエット・ビーチャー・ストウが、フロリダ州マンダリンで冬を過ごした時のことを執筆し、1873年に出版した回想録であり、結果的に旅行ガイドにもなった。ストウは既に1852年に出版した『アンクル・トムの小屋』で有名になっており、南北戦争(1861年-1865年)後にフロリダ州に来て、ジャクソンビルの近くにプランテーションを購入した。それは息子が北軍兵士として受けた傷を癒し、新たな人生のスタートを切る場所という意味合いがあった。ストウは息子を尋ねた後でその地域に夢中になり、自分のためにコテージとオレンジの林を買い、1884年までそこで冬を過ごすことになった。プランテーションそのものは最初の年に失敗していたが、それには構わなかった。『ヤシの葉』の一部はストウの弟のヘンリー・ウォード・ビーチャーが、北東フロリダにおける生活に関する一連の手紙と随筆として新聞に掲載した。
ストウはニューイングランドの牧師の一家に育ち、その手紙で表明していたキリスト教徒としての責任感を痛切に感じていた。新しく解放された黒人が生活を改善するのを援けるのを自分の任務と考え、その目的達成に向けてマンダリンで学校と教会を建てるためにやることを列挙していた。この本の一部では地元のアフリカ系アメリカ人の生活とその社会の慣習を記述している。ストウは地域の魅力とその概して温和な気候を詳述したが、読者に「過剰な」夏の暑さと冬に時として起こる寒波について警告している。その聴衆は親戚、友人、および見知らぬ人であり、当時はまだほとんど原野のままだったフロリダに移り住むべきか否かについて助言を求めたニューイングランドの人々だった。『ヤシの葉』はストウの「全作品」の中では小品だが、フロリダについて書かれた最初の旅行ガイドであり、1880年代に起きたフロリダでは最初の観光ブームと住宅開発を刺激することになった。
== 背景 ==

=== 地所の購入 ===

ハリエット・ビーチャー・ストウ(1811年-1896年)が1867年にフロリダ州に移転した時までに、既に1851年から1852年の間に連作として出版していた『アンクル・トムの小屋』を著すことで国際的に名声を得ていた。この小説はストウの奴隷制度廃止論を支持する見解を詳述し、アメリカ合衆国における奴隷制度を非難することに非常に大きな影響力を発揮した。ストウが奴隷制度に反対したのは、そのキリスト教徒としての信仰に基づいた道徳観から来ていた。ストウは長老派教会牧師のライマン・ビーチャーの娘として成長した。兄弟の中で7人がカルヴァン主義あるいは会衆派教会の牧師となり、ストウ自身も牧師と結婚した〔Gotta, John (September 2000). "The Anglican Aspect of Harriet Beecher Stowe", ''The New England Quarterly'', 73 (3) p. 412–433.〕。
1860年、エイブラハム・リンカーン大統領が南北戦争を予測して志願兵を招集したとき、ストウの息子のフレデリック・"フレッド"・ウィリアム・ストウがマサチューセッツ第1歩兵連隊に入隊した。フレッドは甘やかされて育ち、16歳の時にはアルコールで問題を起こしていた。しかし軍隊に入って中尉に昇進した。1863年のゲティスバーグの戦いで頭に負傷した後、頭痛が激しかったので、軍隊を辞めざるを得なかった〔Wilson, p. 493.〕。アルコール依存が悪化し、当時は広く入手できたオピエート麻薬を自由に使ってさらに複雑なものになっていた可能性がある〔Thulesius, p. 21.〕〔Wilson, p. 498.〕。
1866年、フレッドは戦中に北軍兵としてフロリダで任務について時間を過ごしてきていたコネチカット州の若い農夫2人と出逢った。彼らから、そこの土地は豊富にあって安く、解放されたばかりの黒人が低賃金で働いてくれるということを聞いた。フレッドが母のハリエットと父のカルビン・エリス・ストウにこの情報を伝えると、両親はそれが息子のリハビリを速めてくれる絶好の機会だと考えた〔Thulesius, p. 32.〕。1万ドル($ 2016年換算) で、ストウはジャクソンビルの南、オレンジパークの近くに綿花プランテーションを購入し、ローレルグローブと名付けた。そのプランテーションは当初奴隷貿易業者のゼファニア・キングスリーが1803年に設立したものであり、そのアフリカ人の妻アンナ・マヂジン・ジェイが1811年まで一部管理していたものだった〔May, Philip S. (January 1945). "Zephaniah Kingsley, Nonconformist", ''The Florida Historical Quarterly'' 23 (3), p. 145–159.〕〔キングスリーとアンナ・ジェイは1814年にセントジョンズ川河口にあった別のプランテーションに移転し、そこで25年間住んだ。現在はキングスリー・プランテーションとしてアメリカ合衆国国立公園局が保護している〕。
ストウはフレッドが傷と薬物濫用から快復しながら荘園を管理してくれると期待していた。奴隷制度廃止運動家としての概念を拡張し、弟のチャールズ・ビーチャーに宛ててその動きにおける潜在的な役割を次のような手紙で伝えていた。
私の計画は...如何なる意味においても単なる世の中にある事業ではない。長年、この地でキリストの仕事をより直接の形でやりたいと願ってきた。私の心は私が嘆願しようとした言葉でその信念が貧しい人々と共にあり、今や無知で従順な人々と共にある。誰が彼らを掴むにしてもまさに形成過程の状態にある。

汚職政治家は既にその計画に合わせて資本が許す限り彼らに投資を始めており、彼らの貧しい頭をあらゆる種類の変化で埋めようとしている。フロリダ州は他のどこよりも注力するに足る州である。移民が多くその方向をしっかりと定めているが、単なる世間の移民であり、金を作るだけでそれ以上の期待は無い。〔Wilson, p. 515.〕

ストウの息子であるチャールズ・ストウが後に、母はジャガイモの栽培から物書きまで、やることの全てに高い目的を探していたと記していた。ストウはセントジョンズ川沿いに一連の教会を設立するという考えが、元奴隷を訓練する最良の方法であると記し、「私は長くこの仕事に携わっており、私の中に燃える私の心なくしてそれを考えられない」とも記した〔Stowe, Charles, p. 220–221.〕〔Whitfield, Stephen (April 1993). "Florida's Fudged Identity", ''The Florida Historical Quarterly'', 71 (4), p. 413–435.〕〔『アンクル・トムの小屋』の出版は、ストウを国際的な著名人にした。ストウは既に奴隷制度廃止運動家のサークルで活動しており、元奴隷で独学で北部中に著名な存在になっていたフレデリック・ダグラスと知り合いになっていた。ダグラスは奴隷制度の悪徳について講義を行い、また自由になったが貧困で教育の無い黒人が如何にしたら生活を維持できるかについて考えていることを講義した(Thulesius, p. 61–65)。 『アンクル・トムの小屋』の出版から南北戦争開戦までのいずれかの時点で、ストウはダグラスを自家に招き、この問題について自ら彼に尋ねた。ダグラスに拠れば、その答えの主たるものは教育だった。 ストウはそれから間もなくイングランドでの講演旅行に出発し、逃亡奴隷を援助するために慈善事業に駆り出されたイギリスの同調者から莫大な金を集められると期待していた。ダグラスは元奴隷のために工業学校から始めようとしており、ストウが2万ドルほどを調達してくれると期待していた。会話の行き違いがあったか、ストウがその資金の管理を誤ったか、あるいはダグラス自身が失敗したかで、結局ストウがダグラスに渡したのは500ドルだけだった。ダグラスは混乱し失望した (Thulesius, p. 65)。〕。フロリダ州はまだ人口が少なく開発されていなかった。ジョージア州アラバマ州に比べてほんの僅かな人口しかなかった。オカラより南では1平方マイルあたりほぼ2人 (0.8人/km2) しか住んでいなかった〔Stover, John F. (February 2000). "Flagler, Henry Morrison" , American National Biography Online. Retrieved on June 30, 2009.〕。
フロリダの教育体系は南北戦争の終戦で混乱していた。1866年、A・E・キンという北部人が、解放された黒人の子供のための自由人の学校よりも白人の子供のための学校が少ないと言っていた〔。1860年、黒人の子供のための公式学校は無く、奴隷はいかなる教育も禁じられていた。これと同時に、白人の子供のためには97の公立学校と40の私立学校があり、その中には公的資金を得ているものもあった。1865年5月、フロリダ州の総人口は154,000人であり、推計でその47%が黒人、そのほとんど全てが元奴隷だった〔Laura Wallis Wakefield, "'Set a Light in a Dark Place': Teachers of Freedmen in Florida, 1863-1874" , Fall 2004, MA Thesis, pp. 9, 12-14, University of Central Florida, accessed 17 Nov 2010〕。人種間で教育程度の違いが明らかであり、解放された黒人はその機会を増やすには、あるいは少なくとも隷属に耐えていた状態から逃げ出すために、教育が重要だと見ていた〔Wakefield, Laura (Spring 2003). "'Set a Light in a Dark Place': Teachers of Freedmen in Florida, 1864-1874", ''The Florida Historical Quarterly'', 81 (4), pp. 401–417.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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