翻訳と辞書
Words near each other
・ ヤシ (曖昧さ回避)
・ ヤシの葉
・ ヤシエル・プイグ
・ ヤシエル・プイーグ
・ ヤシオウム
・ ヤシオオオサゾウムシ
・ ヤシオツツジ
・ ヤシオファクトリー
・ ヤシカ
・ ヤシカのカメラ製品一覧
ヤシカバレーボール部
・ ヤシカバレーボール部の歴代選手・スタッフ一覧
・ ヤシガニ
・ ヤシガニ問題
・ ヤシガニ屠る
・ ヤシコバ月子
・ ヤシドリ
・ ヤシドリ科
・ ヤシマソブリン
・ ヤシマドオター (競走馬)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヤシカバレーボール部 : ウィキペディア日本語版
ヤシカバレーボール部[やしかばれーぼーるぶ]

ヤシカバレーボール部(ヤシカバレーボールぶ)は、東京都を本拠地に活動していた、ヤシカの女子バレーボールチームである。
== 概要 ==
諏訪地方では、1951年岡谷南高校バレーボール部が全国高校総体男子バレーボールを制するなど昭和20年代からバレーボール熱が盛んで、ヤシカ社内にも、1955年に下諏訪町のヤシカ体育館を本拠地とするバレーボール部が設けられた。初代監督は小浜尚三で、のち岡谷南高校元監督の原敏(1964年東京オリンピック審判員、長野県バレーボール協会長)らが監督を務めた〔「高原調・下諏訪ヤシカバレー部、旧交温める」(『信濃毎日新聞』朝刊、2001年10月28日付)〕〔「原敏さんが死去 県バレー協会名誉会長 教え子ら、岡谷で来月送る会」(『信濃毎日新聞』朝刊、2009年1月15日付)〕。
1960年に中村高校出身者を多数獲得し、東京を本拠地とするヤシカ本社チームを創部した。1961年の国体6人制一般女子の部において、くしくもヤシカ本社チームと諏訪チームが決勝で激突し、2-1で本社チームに凱歌が上がった。
1963年1月には諏訪チームと本社チームが合併し、本拠地を完全に東京とした〔月刊バレーボール 1975年12月号臨時増刊 50ページ〕。所属選手の寮はあったものの、専用体育館は持たずジプシー生活を廃部まで続けた。
1966年8月6日駒沢屋内球技場で開かれた世界選手権兼アジア大会代表選考会で、当時不敗を誇った強豪チームの日紡貝塚(大阪府)を下し(次節参照)、258試合の公式戦連勝記録を止めたことで一躍注目を集め、翌1967年に創設された日本リーグに参加した。同リーグ強豪の日立(日立武蔵)、ユニチカ(日紡貝塚)と互角の実力を持つ、日本を代表する女子実業団チームの一つとして知られ、1970年に黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会、1972年に日本リーグをそれぞれ制した。
またバレーボール全日本女子チームにも選手を送り、1964年東京オリンピック(金メダル)では渋木綾乃が、1968年メキシコオリンピック(銀メダル)では浜恵子が、1972年ミュンヘンオリンピック(同)では浜と飯田高子が参加。1976年モントリオール五輪では飯田が主将を務めて優勝し、金メダルを獲得した。初めて日本開催となった1967年世界選手権ではヤシカ中心のチームで金メダルを獲得した。
1977年3月に、日本リーグで5位となり、東洋紡守口との入替戦にも敗れ実業団リーグに転落する。翌年実業団リーグ2位となるも、入替戦で富士フイルムに敗北を喫し、日本リーグ復帰はならなかった。ヤシカの経営破綻後、バレーボール部は経営再建の一環として1978年5月に廃部。同月、大沢長蔵部長(当時)と13人の所属選手は新設された日本電気の女子バレーボール部(現・NECレッドロケッツ)に移籍し〔「リーグの歩み 第7章(3) Vリーグの10年・企業チームの試練」 (1970年代以前では男女を通じて日本リーグ所属チームが消滅した唯一の例。Vリーグ公式サイト)〕、ヤシカ23年間の歩みに幕を降ろした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヤシカバレーボール部」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.