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ヤナーチェク : ウィキペディア日本語版
レオシュ・ヤナーチェク

レオシュ・ヤナーチェク( , 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家
モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲室内楽曲ピアノ曲合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラ作品は死後、1950年代にオーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力により中部ヨーロッパの外に出、1970年代以降広く世に知られるようになった。
== 生涯 ==

=== 少年時代(1854年 - 1868年) ===

1854年7月3日、モラヴィア北部の〔Hukvaldy / ; ''ホーホヴァルト'' : 現在のチェコ共和国北東部にあたり、当時はオーストリア帝国領であった。フクは、同時期に活動した心理学者ジークムント・フロイトの出身地である。〕 という村で、父イルジーと母アマリアの10番目の子供(14人兄弟)として誕生した〔ホースブルグ1985、28頁。〕〔内藤2007、181頁。〕。祖父と父はともに教師で、音楽家でもあった〔〔ホースブルグ1985、26-28頁。〕。
11歳のとき、ヤナーチェクの音楽的素養を見抜いていた父イルジー〔ホースブルグ1985、30頁。〕の意向によってモラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院〔ブルノのアウグスティノ修道院でヤナーチェクが生活していたころ、同じ修道院の修道士にモラヴィア出身のグレゴール・ヨハン・メンデルがいた。彼が後世メンデルの法則として知られることになる論文を発表したのはヤナーチェクが修道院へやってきた翌年の1866年である。現在ではこの修道院は遺伝の法則を発見したメンデルの修道院として有名であり一部は現在メンデル博物館となっている。〕付属の学校に入学し、同時に修道院の少年聖歌隊員となった。聖歌隊の指揮者であったパヴェル・クシーシュコフスキーはヤナーチェクの父イルジーのもとで音楽の教育を受けた人物で、ベドルジハ・スメタナと同時期に活動したチェコ音楽における重要人物とされる〔ホースブルグ1985、31-37頁。〕。ヤナーチェクは約4年〔ホースブルグ1985、31頁。〕または8年〔の間、クシーシュコフスキーの指導を受けた。1866年に父のイルジーが死去し、伯父のヤンの後見を受けることになった〔ホースブルグ1985、37頁。〕。なお、ヤナーチェクは後に生まれ故郷のフクヴァルディに足繁く通うようになり、1921年には家を購入している〔ホースブルグ1985、235頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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