|
矢作製鉄株式会社(やはぎせいてつ)は、かつて名古屋市〔本社・工場所在地は名古屋市港区昭和町。東亞合成に隣接し、現在は後継会社の中部リサイクル株式会社が所在する。〕を拠点に活動していた鉄鋼メーカーである。 1937年(昭和12年)設立。当初は鋳物用銑鉄のメーカーであったが、1960年代にフェロアロイ(合金鉄)の製造を始めた。1990年代初頭に製造部門を分離してからは鉄鋼商社に転じ、1998年(平成10年)には株式会社ヤハギ (''Yahagi Corporation'') に社名を変更したが、同年9月に破産した。 == 概要 == 1937年12月、電力会社の矢作水力から供給される電力と、同社系列の矢作工業(現・東亞合成)から供給される副産物の硫酸滓〔硫酸焼鉱。硫化鉄鉱を焙焼して硫酸を製造する際に出る滓のこと。東亞合成では1975年までこの方法で硫酸を製造しており、同年まで矢作製鉄への硫酸滓供給が続いた。〕を有効利用して銑鉄を製造することを目的に、矢作水力の系列企業として設立された。2年後の1939年(昭和14年)に電気炉が稼動し、鉄鋼メーカーとして鋳物用銑鉄の製造を開始した。 戦後、矢作製鉄は鋳物用銑鉄メーカーとして発展し、1959年(昭和34年)に名古屋証券取引所、1961年(昭和36年)には大阪証券取引所、次いで東京証券取引所に株式を上場した(証券コードは5544)。1962年(昭和37年)には小型ながらも高炉を建設し、銑鉄の増産を図った。この結果、1969年度の時点で矢作製鉄は、富士製鐵(現・新日本製鐵(新日鉄))・尼崎製鉄(現・神戸製鋼所)・八幡製鐵(現・新日鉄)という大手メーカーに次ぐ日本で第4位の規模の鋳物用銑鉄メーカーとなった。また、1968年(昭和43年)からは銑鉄に加えてフェロシリコン(合金鉄の一種)の本格製造を開始し、合金鉄メーカーも兼ねるようになった。 しかし、オイルショックやその後の不況により経営が悪化する。1980年代後半から1990年代初頭にかけて、フェロマンガン生産開始、輸入品に対して競争力がなくなったフェロシリコンの生産停止、リサイクル事業の本格化などを実施し、1992年(平成4年)には製造部門を分離してメーカーから商社に転換した(ただし商社部門の他にも、エンジニアリング部門が残っていた)。それでもなお債務超過で経営危機が続いたため、1994年(平成6年)2月に電気炉メーカーの共英製鋼と業務提携し、経営の建て直しを図ることになった。提携により、矢作製鉄は共英製鋼の子会社となった。提携直後の同年6月に高炉が老朽化により停止する事故が発生してフェロマンガンや銑鉄などの主力製品を製造できなくなったために収入が大幅に減少するが、共英製鋼との提携により工事の受注が増加してエンジニアリング部門が伸長、これに加え債務整理を実施したため一旦経営が改善した。 しかし共英製鋼との提携は長く続かず、1997年(平成9年)7月に株式公開買付け (TOB) によって新たにキョクイチ(現・トムス・エンタテインメント)が新たに筆頭株主となった。この影響で矢作製鉄は非鉄鋼の新規事業への参入を目指すことになる。そこで1998年1月に株式会社ヤハギへと社名を変更した。まず人材派遣事業に参入するために1998年2月に人材派遣事業者を吸収合併(この影響でパソナが資本参加)するが、3月にはキョクイチがヤハギの株式を売却した。このような経営主体の度重なる異動で経営が混乱し、新規事業参入の経費もあって再び経営が悪化していった。さらに、7月には不明朗な手形の発行疑惑が浮上。対外信用の悪化や株価の下落を招き、資金繰りが極度に悪化した。このため同年8月にエンジニアリング部門を除く鉄鋼部門の休止を決定するが、「事業の主要部分の停止」と見なされて各証券取引所でヤハギの株式は監理ポストに移された。そして資金繰りの目処が着かなくなったために、同年9月18日、取締役会での決定を経ない準自己破産の形をとって破産した。負債総額は約36億円であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢作製鉄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|