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ヤマニンバリメラ
ヤマニンバリメラは、1970年代を中心に中央競馬で走った日本の競走馬。重賞は未勝利に終わったが、当時の中央競馬としてもめずらしい通算100戦出走の大台達成なるかで注目を集めた。 == 来歴 == 1973年9月23日に初出走し、4戦目で初勝利を挙げる。1974年以降はコンスタントに年10戦以上を消化した。ただし夏負けする体質〔『優駿』1981年6月号、p.32〕のため8月の前後は休養にあてられた。本馬を管理した調教師の浅見国一は、本馬が息長く走れた秘訣について「とりたててはないと思っている」〔としながらも、「疲労の激しい真夏のレースを使えなかったことがよかったのではないかな」と述べている〔。 重賞を含めた特別競走への出走は82回を数え〔『優駿』1981年6月号、p.34〕、“生ずるい”気性〔の追い込み脚質〔ながら10勝、2着13回、3着12回、4着11回、5着9回〔と堅実な成績を残した。なかでも芝コースの長距離と道悪、ダートコースを得意としていた。京都、阪神、中京の3競馬場で集中してレースに使われたが、中央競馬招待競走出走のため大井競馬場へも2度にわたり遠征した。騎手は7勝を挙げた池江泰郎を筆頭に、田島良保や日高三代喜らが騎乗した。 旧表記にして10歳となる1980年までレースに出走した。一時期裂蹄に悩まされた〔『優駿』1981年6月号、p.33〕以外は大きなけがもなくきていたが、同年5月3日に通算99戦目となるエメラルドステークス(1700万円以下条件)への出走後、3度目の大井競馬場遠征を前にして、左前脚に屈腱炎を発症〔。このとき引退が検討された〔が、NHKで取り上げられたり〔『優駿』1981年6月号、p.31〕〔NHKアーカイブス保存番組詳細『ルポルタージュにっぽん めざせ百戦 10歳馬ヤマニンバリメラと若者たち』 (NHKクロニクル)〕、ファンクラブが結成される〔といった現象もあり、調教師も悩んだ末の〔現役続行となった。放牧休養を経て〔、翌1981年3月の末に栗東トレーニングセンターに戻り〔調教を再開したものの、間もなく屈腱炎を再発〔したため、レースへの復帰ならず引退。同年4月26日、大阪府立大学の馬術部に引き取られていった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤマニンバリメラ」の詳細全文を読む
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