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ヤン・アダムス・ラインケン : ウィキペディア日本語版
ヨハン・アダム・ラインケン

ヨハン・アダム・ラインケン(, , 1643年12月10日 - 1722年11月24日)は、17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ハンブルクで活躍したオランダ出身の作曲家である。オルガン音楽の大家として知られ、ディートリヒ・ブクステフーデとともに、北ドイツ・オルガン楽派の隆盛を築いた。
== 生涯 ==
従来、ヨハン・アダム・ラインケンは、1623年4月27日にエルザス地方のヴィルハウゼンで生まれたとされてきた。これは、ヨハン・マッテゾンが『音楽批評 第1巻』(1722年)においてラインケンの生年は1623年4月27日であると述べており〔Johann Mattheson, ''Critica musica Tomus primus'', Hamburg, 1722, p.255〕、ラインケンの父アダム・ラインケンは、1637年にオランダのデーフェンテルに移住する以前、ヴィルハウゼンに住んでいたと考えられたことによるものである〔現存するデーフェンテル市の戸籍簿によれば、アダム・ラインケンが同市に移住したのは1637年8月12日である。〕。しかしながら、今日では、近年調査されたデーフェンテルの教会の洗礼記録にもとづき、1643年12月10日に生まれたアダム・ラインケンの子ヤンが、後のヨハン・アダム・ラインケンとされるようになってきている〔Ulf Grapenthin, "Reincken, Johann Adam", ''New Grove Dictionary of Music and Musicians'', Stanley Sadie & John Tyrell ed., London: Macmillan Publishers Limited, 2001, vol.21, p.154。ラインケンは、1687年に出版した『音楽の園』の序文で、デーフェンテルの出身であると述べており、1624年のデーフェンテルの洗礼記録には、ラインケンの出生は記載されていない。なお、Ulf Grapenthinは、ラインケンの父の出身地がエルザス地方のヴィルハウゼンではなく、ブレーメン近郊のヴィルデスハウゼンであったことも明らかにしている。〕。ラインケンのミドルネーム「アダム」は、アダムの子であることを示すオランダの故習にしたがって、後に付加されたものと推測される。
ラインケンの少年時代の記録はほとんど残されていない。1650年に、ベーデッカー家の寄付を得て、郷里のデーフェンテルでヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクの弟子であるルーカス・ヴァン・レーニンクからオルガンの指導を受け、1654年11月12日には、ハンブルク聖カタリーナ教会のオルガニストであるハインリヒ・シャイデマンに師事するため、ハンブルクに到着している。その後、1657年3月11日に、デーフェンテルで市教会のオルガニストに採用されるが、1658年末には再びハンブルクに戻って、シャイデマンの助手となり、1663年11月26日にシャイデマンが死去すると、その後任として、聖カタリーナ教会のオルガニストに任命される。
1665年6月23日、ラインケンはハンブルクの市民権を得て、その翌日、シャイデマンの末娘であるアンナ・ドロテアと結婚する。2人の間に生まれた娘マルガレータ・マリアは、後にラインケンの弟子であり、ハンブルク聖ヤコプ教会のオルガニストとなるアンドレアス・クネラーと結婚している。
当時のプロテスタント教会におけるオルガニストは、教会の営繕や書記等、事務職を兼ねることが一般的であった。しかしながら、ラインケンは、1666年に書記は自ら選んだ任務ではないとしてその返上を教会当局に申し出て、年間1,445マルクの俸給の増額とともに、これを受け入れさせる。ラインケンは、後に室内楽曲集『音楽の園』を出版した際、その序文において、自らを教会カントルと対比して「オルガン指導者(Directore organi)」と称しているが、これらは、ラインケンの芸術家としての強い自意識の表れである〔Johann Adam Reincken, ''Hortus musicus'', Hamburg, 1678, Grapenthin 2001, p.155〕。
実際、ラインケンは、オルガンの演奏のみならず、新設・改修されたオルガンの鑑定においても優れた才能を発揮し、17世紀後半におけるハンブルクの経済的・文化的繁栄を体現する存在であった。1671年 - 1674年にかけては、聖カタリーナ教会のオルガンの大規模な改修を監督し、4段鍵盤からなる北ドイツ最大規模のオルガンをその生涯を通して良好な状態に保ち続ける。ラインケンの許には、アンドレアス・クネラー、ヨハン・ハインリヒ・ウトメラー、ゲオルク・ディートリヒ・ライディンク、ハインリヒ・ロジェをはじめ、多くの音楽家がその薫陶を受けるために訪れた。ヨハネス・フォールハウトによる油彩画『家庭音楽のひとこま』(1674年)には、ディートリヒ・ブクステフーデとともに室内楽を楽しむラインケンの姿が描かれている。中央のチェンバロに向かって座るラインケンは高価な絹の着物を纏っており、服装に東洋趣味を取り入れることは、当時最新の流行とされていた〔Christoph Wolff, "Das Hamburger Buxtehude-Bild", ''In 800 Jahre Musik in Lübeck'', Lübeck: Senat der Hansestadt Lübeck, Amt für Kultur, 1982, pp. 64-79〕。また、ラインケンは、教会オルガニストとしての活動にとどまらず、1670年代には、マティアス・ヴェックマンが創設した音楽団体「コレギウム・ムジクム(Collegium musicum)」が毎週開催していた演奏会に関わるとともに、1678年にハンブルクにゲンゼマルクト歌劇場が建設されると、パンブルク・オペラの創立者の1人として名を連ね、1685年にオペラの運営から退いた後も、オペラに対する関心を持ち続けた〔ラインケンは、1694年にハンブルク・オペラの経営者であったゲルハルト・ショットからペアの無料席を提供されている。〕。
1681年9月30日、先妻と死別したラインケンは、3年3ヵ月後の1685年1月1日に、アンナ・ヴァーグナーと再婚する。ブクステフーデは、ラインケンの結婚を祝い、ラインケンのために声楽曲(BuxWV19)を書き贈っている。その一方で、世紀の移り変わりとともに、人々の音楽に対する嗜好にも変化が表れてくる。1705年には、聖カタリーナ教会当局が、ラインケンの後任としてヨハン・マッテゾンを採用しようとしたことが発覚し、ラインケンはこれを阻止する。マッテゾンは、その著作において少なからずラインケンに対する誤った否定的な見解を述べているが、1705年以来、マッテゾンとラインケンは対立関係にあったことを考慮すべきである〔マッテゾンは、『音楽批評 第1巻』(1722年)に掲載したラインケンの死亡記事において、ラインケンの生年を誤った他に、ラインケンについて常に女と酒を愛していたと述べており、1740年の『登竜門への基礎(Grundlage einer Ehrenpforte)』でも、ラインケンを虚栄心の強い人物として評している。〕。
1718年、ラインケンは、弟子のヨハン・ハインリヒ・ウトメラーを助手に任命することを聖カタリーナ教会当局に申し出で、実質的に引退する。ラインケンは、莫大な財産を教会に残す代わりに、教会から年金を受け取ることで、生涯豊かな生活を送ることができた。1722年11月24日、ラインケンはハンブルクで死去し、遺体はリューベックの聖カタリーナ教会に葬られる。リューベックの聖カタリーナ教会に現存するラインケンの墓所は、ラインケンが1707年に弟子にして娘婿であるクネラー家から買い取ったものであり、同教会にラインケンが寄進したキリストの復活を描く油彩画は、ラインケンの敬虔な信仰心を偲ぶ縁となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Johann Adam Reincken 」があります。



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