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ユスティニアヌス1世(, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(〔ギリシア語では、フラヴィオス・ペトロス・サッバティオス・ユスティニアノス()となる。〕)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる〔J.F. Haldon, ''Byzantium in the seventh century'' (Cambridge, 2003), 17–19. 彼の再興事業によって、ユスティニアヌスは近現代の歴史家たちから「最後のローマ人」と呼ばれた。例としてG.P. Baker (''Justinian'', New York 1931) や ''Outline of Great Books'' series (''Justinian the Great'') が挙げられる。〕。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産のより重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(''Corpus Iuris Civilis'')であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている〔東方正教会ではユスティニアヌスはユリウス暦11月14日(現在のグレゴリオ暦では11月27日)に祝われている。また、彼はルーテル教会ミズーリ長老会とカナダ・ルーテル教会では聖者歴11月14日に祝われている。〕。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた〔Procopius, ''Secret History''.〕。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(''Anekdota'')を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。 == 生涯 == === 出生から即位 === のちに皇帝ユスティニアヌス1世となるペトルス・サッバティウスは、483年にタウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)で農民サッバティウスの子として生まれた〔M. Meier, ''Justinian'', 29: "481 or 482"; Moorhead (1994), p. 17: "about 482"; Maas (2005), p. 5: "around 483".〕。ラテン語を話す彼の家族はトラキア系ローマ人またはイリュリア系ローマ人であると考えられている〔Justinian referred to Latin as being his native tongue in several of his laws. See Moorhead (1994), p. 18.〕〔The Cambridge Companion to the Age of Justinian by Michael Maas 〕〔 Justinian and Theodora Robert Browning, Gorgias Press LLC, 2003, ISBN 1593330537,p. 23. 〕。のちに彼が用いるコグノーメンの Iustinianus は叔父のユスティヌス1世の養子となったことを意味する〔The sole source for Justinian's full name'', Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus'' (sometimes called ''Flavius Anicius Justinianus''), are consular diptychs of the year 521 bearing his name.〕。彼の治世中に出身地から遠くない場所にユスティニア・プリマを建設している〔The Serbs by Sima M. Ćirković 〕〔The Dictionary of Art by Jane Turner 〕〔Byzantine Constantinople: Monuments, Topography and Everyday Life by Nevra Necipoğlu 〕。母ウィギランティアはユスティヌスの姉だった。 叔父のユスティヌスは近衛隊(''Excubitores'')に属しており〔、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノポリスへ招き寄せて養育した〔。このため、ユスティニアヌスは法学と神学そしてローマ史について高い知識を持っていた〔。彼はしばらく近衛隊に勤務していたが、経歴の詳細については分かっていない〔。ユスティニアヌスと同時代の年代記編者ヨハネス・マララスはユスティニアヌスの外見について背が低く、色白で、巻き毛、丸顔の美男子だったと述べている。もう一人の同時代の年代記編者プロコピオスは(おそらく中傷だが)ユスティニアヌスの外見を暴君ドミティアヌスに喩えている〔Cambridge Ancient History p. 65〕。 518年にアナスタシウス1世が死去すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大きな助けを受けて新帝即位を宣言した〔。ユスティヌス1世の治世(518年~527年)においてユスティニアヌスは皇帝の腹心となった。ユスティニアヌスは大望を抱き、共同皇帝になる以前から事実上の摂政の役割を果たしていたとされるが、それを確認する証拠はない〔Moorhead (1994), pp. 21-22, with a reference to Procopius, :en:Secret History 8.3.〕。治世の末期にユスティヌスが老衰するとユスティニアヌスは事実上の統治者となった〔。521年にユスティニアヌスは執政官に任命され、後に東方軍司令官ともなっている〔〔この役職は名義上のものとみられる。ユスティニアヌスが軍務経験をした証拠はない。A.D. Lee, "The Empire at War", in: Michael Maas (ed.), ''The Cambridge Companion to the Age of Justinian'' (Cambridge 2005), pp. 113-133 (pp. 113-114) 参照。〕。 525年頃にユスティニアヌスは20歳年下の踊り子テオドラと結婚した。当初、ユスティニアヌスは階級の違いのために彼女と結婚できなかったが、叔父の皇帝ユスティヌス1世が異なる階級間の結婚を認める法律を制定した〔M. Meier, ''Justinian'', p. 57.〕。テオドラは帝国の政治に大きな影響を与えるようになり、後代の皇帝たちも貴族階級以外から妻を娶るようになった。この結婚は醜聞となったものの、テオドラは非常に知的で、抜け目なく、公正な性格を示してユスティニアヌスの偉大な後援者となった。 ユスティヌス1世の死が迫る527年4月1日にユスティニアヌスはカエサル(副帝)に就任し、同年8月1日のユスティヌス1世の崩御により単独統治者となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユスティニアヌス1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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