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ユダヤ人評議会(ユダヤじんひょうぎかい、独:Judenrat)は、ナチス・ドイツ占領下の東ヨーロッパに設置されたゲットーの運営を任されていたユダヤ人による「自治組織」である。同じくドイツ占領下であってもゲットーが設置されなかった西ヨーロッパには創設されなかった。ただし例外的にオランダにはユダヤ人評議会が置かれた。 == 東欧のユダヤ人評議会 == === 誕生 === 1939年9月にドイツ軍はポーランドを占領した。ドイツ当局はポーランド・ユダヤ人の管理方法として、ユダヤ人を都市に集中させるとともに、その都市にユダヤ人評議会を創設してユダヤ人を管理させる事を考えた。ユダヤ人管理をユダヤ人自治組織にやらせる事は、「欠陥が現れた時、ユダヤ人の憤慨の方向がドイツ当局にではなく、ユダヤ人自治組織に向かう」よう仕向けることにもつながり、ドイツ当局にとっては効率的な事であった。 1939年9月21日、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒは、アインザッツグルッペンの指揮官に対してポーランドの各都市のユダヤ人共同体(ケヒラ)に権威あるユダヤ人男性24名から成るユダヤ人長老評議会(Ältestenrat der Juden)を創設させるよう命令を出した。この命令の別の個所では長老評議会(Ältestenrat)がユダヤ人評議会(Judenrat)という言葉に置き換えられており、二つの用語は完全に同義であった〔ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)602ページ〕〔栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)66ページ〕。 このハイドリヒの命令に基づき、ユダヤ人評議会(もしくはユダヤ人長老評議会)がポーランドの各地に次々と設置されていった。クラクフでは1939年9月21日にマレク・ビーバーステインを議長とするユダヤ人評議会が創設された。ワルシャワでは1939年10月4日にアダム・チェルニャクフを議長とするユダヤ人評議会が創設された。ウッチでは1939年10月13日にモルデハイ・ハイム・ルムコフスキを議長とするユダヤ人長老評議会が創設された〔栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)66ページ〕〔ミーテク・ペンパー著『救出への道 シンドラーのリスト・真実の歴史』(大月書店)28ページ〕。 これを追認する形で1939年11月28日にポーランド総督ハンス・フランクは彼の領域下のユダヤ人共同体に対してユダヤ人評議会を創設するよう法令を出した〔栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)66ページ〕。フランクの出した法令は、人口1万人以下のユダヤ人共同体はユダヤ人評議会の議員を12名選出、また人口1万人以上のユダヤ人共同体は24名の議員を選出することを求めた。そして各ユダヤ人評議会は各都市のドイツ人市長の管理下に置くこととした〔ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)602ページ〕〔ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』(柏書房)166ページ〕。 評議会メンバーに選ばれたのは戦前のポーランドでユダヤ人共同体の長だった者、ユダヤ人政党の議員として地方議会に議席を持っていた者、またユダヤ系慈善団体やユダヤ教の宗教団体などの幹部の者であった。ドイツ語を話せる者が優先的に選ばれ、ユダヤ教正統派ラビや社会主義者はなるべく外された〔ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』(柏書房)166ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ユダヤ人評議会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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