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ユハ・カンクネン : ウィキペディア日本語版
ユハ・カンクネン

ユハ・カンクネン(ユハ・マッティ・ペレルヴォ・カンクネンJuha Matti Pellervo Kankkunen, 1959年4月2日 - )は、フィンランドラリードライバー。フィンランド・ラウッカ生まれ。コリン・マクレーが1995年にタイトルを獲得するまで、史上最年少のタイトルホルダーだった。
== 経歴==
カンクネンはユヴァスキュラの近くの農場で育った。 1978年フォード・エスコートRS2000を操りラリーデビュー。WRCには1979年1000湖ラリーが初参戦である。1983年トヨタ・チーム・ヨーロッパに移籍。1985年サファリラリーでWRC初優勝。1986年プジョーに移籍、同年初の世界タイトルを得る。翌年ランチアに移籍、世界タイトル連覇。その翌年トヨタに復帰する。1988年1989年は古巣トヨタでセリカST165を駆り、89年はオーストラリアで復帰以来初の優勝を飾ると、1988年にはプジョーからパリ・ダカール・ラリーに出場し総合優勝した。
1990年に再びランチアに移籍、1991年カルロス・サインツとの激戦を制し、3度目の世界タイトルを得る。
1992年ポルトガルの1勝にとどまるものの、堅実な走りでランチアのメイクスタイトル6連覇に貢献する。しかしながら最終戦終了時点で翌年のシートは決まっていない状態だった。ところがサインツの個人スポンサーであるレプソルとトヨタが新たにスポンサーシップを結んでいたカストロールが同業種ということでバッティングしたため急遽ランチア(ジョリー・クラブ)へ移籍し、それに伴いトヨタ移籍が実現した。
1993年は長年のパートナーであるユハ・ピロネンが脳震盪で倒れ、急遽他のコ・ドライバーと組むアクシデントに見舞われるが、フォード勢との熾烈な戦いを制し、見事4度目の世界タイトルを獲得。そして、トヨタに日本メーカーとして初のメイクスタイトルをもたらした。
1994年には前年の中盤に組んだニッキー・グリストをコ・ドライバーとする。緒戦のポルトガルで勝利を飾るが、ニューマシンの開発兼務のため、これが唯一の勝利となる。そのニューマシン、セリカST205はサンレモ・ラリーからカンクネンの手によってデビューするが、搭載していたスーパーストラットサスペンションの不調と車重に悩まされ続ける。1995年カタルニア・ラリーは序盤はリードするも、2日目の終盤にコースアウトでリタイア。チームメイトのディディエ・オリオールが4位でフィニッシュするが、再車検でターボ・リストリクターへ不正な細工が行われていたのが発覚。オリオールのリザルトは無効となり、カンクネンも同ラリーまでポイント・ランキングでトップに立っていたものの、国際自動車連盟(FIA)によってポイント無効の処分がなされ、さらにトヨタは一年間ワークス活動を禁止される事態となった。
1996年はワークス活動を停止したトヨタに残留し、プライベート体制で4戦に出場。1997年はシートを得られなかったが、フォードのアルミン・シュバルツがシートを得る前提条件であったスポンサードを得られなくなり解雇されるとその入れ替わりで第7戦ラリー・アルゼンチンから参戦。基本設計が古く、三菱スバルよりも戦闘力の劣るエスコートWRCを駆りながら、コンスタントに上位入賞する活躍をみせ、マシン開発が終わった1998年のフィンランドで熟練した走りで勝ち取った3位は特筆に価する。フォード時代の最高位は7回の2位。
1999年にスバルに移籍。序盤はマシンとタイヤの開発が他チームに遅れて苦戦するも、中盤戦に入ると熟成も進み、アルゼンチンでは6年ぶりの勝利を飾ると、地元のフィンランドでも安定した速さで勝利をあげた。2000年リチャード・バーンズを中心としたチーム運営に変わり、走りも精彩を欠くようになり、この年限りでスバルを去った。2001年ヒュンダイでフィンランド・ラリー一戦のみに参加、翌2002年はヒュンダイのレギュラーシートを得る。しかしながら目立った成績を上げることなく翌2003年にはシートを失い、実質的なWRC引退となった。なお、2010年にはラリー・フィンランドにフォード・フォーカスWRCでスポット参戦し、総合8位の結果を残している。
カンクネンは活躍の場を再びラリーレイドに移し、2004年はUAEデザートチャレンジに参加した。彼はコ・ドライバーのユハ・レポとともに2005年のダカール・ラリーにフォルクスワーゲンから出場したもののリタイアに終わった。
フィンランド出身の著名なスポーツ選手は「フライング・フィン」と呼ばれるが、彼もそのように呼ばれ、彼はまた2002年3月に創立したフィンランドの低価格航空会社「フライング・フィン」航空(2004年に経営破綻)に出資もしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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